現代経済を分析する政治経済学の基本視角
延近 充
政治経済学は英語ではPolitical Economyで,もともと古典派経済学やマルクス経済学など「経済学」そのものを指す用語であった。現在では,経済現象を純粋な経済要因以外の広い視野から分析する学問として様々な学派が存在している。
私はマルクス経済学を専門とし,マルクス経済学の理論と方法に基づいて現代経済を研究しているが,政治経済学の性格についてはマルクス経済学界でも多様な考え方がある。読者のなかには経済学を学んだことのない方もおられるだろうから,まず経済学とは一般的にどのような学問なのかということから説明しよう。

(1) 経済学とはどんな学問なのか

経済学は人間の経済活動の法則を社会科学として分析する学問である。経済活動とは,衣食住など人間が生活していくために必要なものを労働によって生産し,その労働生産物を自分で消費するか,あるいは他人が生産した労働生産物と交換し合って消費することである。消費には次の生産期間以降も生産を繰り返す(再生産)ための生産的消費も含まれる。
個々人が必要とするものはその種類も量もさまざまであるし,他人の生産物との交換も頻繁にではなく偶然的に行なわれるのであれば,その交換比率も一定しないであろう。例えば,農村と漁村との間で生産物の交換が行なわれるのが豊作と豊漁の場合だけで,それぞれの村で消費しきれない分だけが交換の対象となる場合である。
人間の経済活動の総体としての経済現象が一定の法則性を持って運動するようになるのは,資本主義経済が成立してからである。「経済学の父」と呼ばれるイギリス人のアダム・スミスが『諸国民の富』を書いたのは18世紀後半であるが,この時期はイギリスで産業革命が進展し資本主義経済がイギリス経済において主要な位置を占めはじめた時期である。資本主義経済が発展したことによって経済現象の運動が法則性を持つようになったからこそ,その法則を社会科学的に分析する経済学が成立したのである。
では資本主義経済の運動が法則性をもつのはなぜだろうか。それは資本主義経済が市場を舞台とする商品生産社会であり,商品の生産や売買が利潤を目的として競争的に行なわれる,という2つの特徴をもっているからである。
商品生産社会では,生産者や消費者それぞれの関係は人と人との直接の関係としてではなく,商品の生産と交換の関係として現れてくる。商品交換が普遍的なものになれば,商品の交換比率すなわち価格は交換が行なわれる場としての市場で決まり,商品に対する需要と供給の大小によって価格が変化することになる。こうして商品はその生産者の個性や主観からは独立し,商品価格は需要と供給の変化という客観的な要因に基づいて運動をするようになる。つまり,経済現象があたかも自然現象であるかのように運動を行なうようになり,その結果,商品とその価格の運動が逆に人々の意識と行動を支配することになるのである。
商品生産社会では,個々の経済主体(生産者・消費者または供給者・需要者)は直接的には自分の意思と判断にしたがって,自己の利益を求めて経済活動を行なっているのだが,そのような経済主体が多数存在することによって,その判断や行動は個別的な差が相殺されて平均化されていく。さらに自己の利益追及という目的にもっとも適合する行動をとるものが優勢となり,逆にその目的に適合しない行動をとるものは淘汰されていくという競争の作用によって,経済主体の行動自体が同一の方向性をもつようになっていく。
したがって,経済主体全体として生み出されてくる運動も,ある条件が与えられた場合あるいはその条件が変化した場合には必然的に一定の方向に進むというように,規則性を持って反復するものとなる。また長期的にその運動が反復されるなかで,経済主体の運動の場である市場や経済主体の性質自体を一定の方向へ変化させることも起こってくる。
これが資本主義経済の運動が法則性をもつということである。
この法則を社会科学的に分析し明らかにするのが経済学なのであるが,分析の対象が人間の活動である経済現象であるから,自然科学のように様々な条件を与えて実験をして法則を純粋な形で取り出すという方法をとることはできない。現実の複雑な経済現象のなかから法則性を抽出して理論化するための大前提は,現在進行中の経済現象はもちろん歴史的な事実も含めて,まず現実を知ることである。さまざまな統計データやフィールドワークなどによる事実の収集,つまり豊富な現実認識である。
そのうえで,その現実認識のなかから,ある国や地域に特有の例外的な現象や法則の攪乱要因などを排除して,より本質的で一般的な関係を取り出す必要がある。理論的抽象力を用いた取捨選択の作業である。つまり,豊富な現実認識に基づいて理論的抽象力によって明らかにされた資本主義経済の運動法則を明らかにし,その法則を理論的基礎として歴史の解釈や現状分析,政策提言を行なうのが経済学である*。
* 経済現象の法則性や経済学の方法について,より詳しくは延近『21世紀のマルクス経済学』(慶應義塾大学出版会,2015年)の序章をお読みください。

(2) 現在主流となっている経済学の問題点

現在,主流となっている経済学は,数学や統計学をツールとして理論モデルを構築し,そのモデルから法則を導き出して現状分析や政策提言の理論的基礎とするという方法がとられている。理論モデルの構築にあたっては,やはり現実の経済現象を集めてモデルに反映させることになるが,こうした方法による経済学では,数学や統計学の言葉で表せるように,多様な経済現象を経済学者の頭脳の中で取捨選択し抽象化することになる。
例えば,人々が生活していくために衣食住など様々な商品を購入する場合,個人個人は自分の好みや習慣などに基づいて,どんなものをどれだけ消費するかを自分の収入と照らし合わせて選択するのだが,一般的な経済学では消費者は自分の効用を最大化するように選択すると想定する。
また企業は商品を生産して販売しているが,どのような商品をどんな生産方法を用いてどれだけ生産するかを選択する際には,自らの利潤を最大化するように行動すると想定する。
こうした個人や企業という経済主体の行動の総体として雇用や所得はどのように変動するのか,それが経済全体の運動にどのような影響をもたらすのかなどを,モデルを使って分析するわけである。
現実の経済を数学的なモデルに抽象化して分析するという方法によって経済学は発展し,現状分析や政策提言も精緻化されてきたと言えるのだが,この抽象化には両面性がある。モデル化のために現実の経済現象を取捨選択する際には,上述のように,ある国や地域に特有の例外的な現象は捨象されることになるし,政治的要因や文化的要因によって経済の法則性が阻害されていると考えられる場合にも,そうした要因は捨象される。
こうした取捨選択によって経済法則は一般化され,そのことによって例外的な現象はなぜ例外なのか,経済外の阻害要因がなければ経済はどのように運動すると考えられるかが明らかになる。これは,抽象化・一般化のプラスの側面といえる。
しかし,経済は政治や文化とはまったく独立して存在しているわけではない。経済が政治や文化など切っても切れないほど密接に不可分なものとして運動している場合,これらの要因を経済学者の頭脳の中で経済外要因として捨象してしまえば,現実の経済を社会科学的に分析する学問としての経済学は有効性を失ってしまう危険性がある。
経済分析のツールとしての数学や統計学は有意義であるが,両者ともに抽象的な学問であるだけに,前提や条件の設定しだいで結論は大きく左右され,現実と乖離したものとなる可能性があるからである。経済と不可分の政治的要因や文化的要因を,数式モデルに反映するのが方法的に困難だからという理由で排除したとすればなおさらである。

(3) 現代の経済を分析するために必要な視角

このことはどのような国・地域のどの時代の経済を分析する際にもあてはまるのであるが,特に第2次世界大戦後の経済を対象とする場合には決定的に重要となる。
例えば,大戦後のアメリカ合衆国(以下アメリカと表記)は,戦場となったヨーロッパ諸国と対照的に圧倒的な経済力を持つことになり,その群を抜く国際競争力によって巨額の貿易黒字国となった。しかし戦争終了からわずか25年余りの1971年に貿易収支は赤字になり,その後第1次石油危機前後の例外を除いて,現在に至るまで巨額の貿易赤字を計上し続け,1980年代後半には対外債務が債権を上回る純債務国に転落した。
一方,日本は戦後わずか10年の1955年から約15年間,実質年率10%前後の経済成長を実現した。貿易収支は64年以降恒常的に黒字となり,65年には対米貿易収支も黒字となった。
この日米両国経済の対照的なパフォーマンスの違いは,抽象的な経済モデル・理論では到底説明できるものではない。着目すべきなのは,経済外的要因としての国際政治・軍事要因である。
日本が急速な戦後復興を遂げた要因として重要なのは1950年に始まった朝鮮戦争である。占領軍として日本に駐留していた米軍が朝鮮半島で軍事行動を行ない,日本は後方支援基地として機能したために(当時の日本経済の規模としては)巨額のドル収入を獲得することができた(いわゆる朝鮮特需)。そのドルで外国技術を導入し戦争で荒廃した生産設備を革新(いわゆる合理化投資)したことによって,55年以降の高度経済成長の基盤が作られたのである。
経済成長率は64年の東京オリンピック後に低下するが,65年以降には輸出拡大をテコとして60年代前半以上の高い経済成長率を記録する。この輸出拡大はアメリカのベトナムへの本格的な介入=ベトナム戦争を背景として,ベトナム周辺諸国やアメリカへの輸出が急増したことが最大の要因である。
アメリカの貿易収支が赤字に転化したもっとも重要な要因が,第2次世界大戦後の新たな国際政治・軍事状況としての米ソ間の冷戦である。
大戦によってアメリカ以外の資本主義国は荒廃状態となった一方,東欧諸国が社会主義国になりアジア諸国でも社会主義をめざす動きが強まって,社会主義は戦前のソ連一国から世界的な体制となっていった。こうした資本主義の体制的危機に直面したアメリカは,社会主義に対抗し西欧や日本の資本主義体制を再建し強化していくために,主導的役割を担って新たな資本主義世界体制を作り上げていったのである。
冷戦は,資本主義と社会主義というイデオロギーおよび政治・経済体制間の妥協不可能な対立であることに加えて,米ソが核兵器を中心とする軍拡競争を繰り広げていったことを特徴としている。朝鮮戦争とベトナム戦争はこの冷戦の一環なのであるから,戦後の日本経済の復興と高度成長を冷戦との関係を除外して説明することはできないのである。
軍事力・軍事支出は,経済学的に見れば何らの国富を生み出さずに,国家の資本・労働を浪費するものである。このことは前述のアダム・スミスが18世紀にすでに論じている。実際,米ソの軍拡競争は両国の経済力を侵食していった。その現れがアメリカの国際競争力の相対的低下による貿易赤字の累増,純債務国への転落である*。
* ソ連の場合は過度の軍事力・軍事支出の負担に耐えられず,ゴルバチョフ共産党書記長による改革を経て,経済的困難が政治的な不安定ももたらして,国家自体が消滅するにいたった。
軍拡は経済に悪影響を及ぼすことは経済学的には自明であるにもかかわらず,なぜアメリカは軍拡競争に邁進したのか,そしてこの軍拡競争はアメリカ経済のみならず世界経済にどのような影響をもたらしたのか。これらを考察することは,戦後の経済を分析する際には必要不可欠となる課題なのである**。
**この課題についての私の見解は,『薄氷の帝国 アメリカ― 戦後資本主義世界体制とその危機の構造』(御茶の水書房,2012年)で展開した。また,マルクス経済学の理論を戦後のアメリカ経済と日本経済の分析に応用して解説した前掲『21世紀のマルクス経済学』も参考にしていただきたい。
以上のように,第2次世界大戦後の世界経済や各国経済を分析する場合,国際政治や軍事要因を含む多面的で総合的な視角が必要となる。こうした視角に基づく経済学が政治経済学である。つまり,純粋に経済的要因のみに限定して経済を分析する学問としての経済学と区別するための名称なのである。
なお,2001年9月のいわゆる9.11同時多発テロ後,アメリカ主導によるアフガニスタン攻撃(2001年10月)とイラク攻撃(2003年3月)をきっかけとして始まった対テロ戦争を分析する場合にも,政治経済学の視角が必要となる。対テロ戦争はアフガニスタン攻撃開始から18年,イラク攻撃開始から16年経った現在も続いており,欧米諸国内でもイスラム過激派によるテロ攻撃が頻発してグローバルに拡大している。
なぜ対テロ戦争は長期化・泥沼化し,「終わらない戦争」となっているのかについては,延近『対テロ戦争の政治経済学』(明石書店,2018年)をお読みください。
2019年3月1日公表

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