経済問題メーリングリスト
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経済問題メーリングリスト
2003年11月15日〜
ここにある文章は、一般社会人、学生、その他、とくに社会学を専門に学習しているわけではない者同士で、タテ社会について論じた記録です。

[01793] 司会:最適な小集団の規模

司会です

今回のテーマでの議論は12月7日までです。 いままでの話題に関しても言い残した意見を出すほか、次の話題についても 意見を募集します。

『タテ社会の力学』という『人間関係』の続編といえる本の中で小集団という 概念が登場し、「場」の概念を理解する上で重要だと主張しています。

小集団=仕事の協力と場の共有がされる小さなグループという意味でつかわ れています。大きな組織は、小集団ごとにタテワリ化されるというイメージ です。極論すれば、小集団の中での協力はあるが、小集団同士の協力はない、 というようなグループができるのが日本社会の特徴という主張です。

そして、小集団の理想的なサイズとして5〜7人という数字を挙げています。 今回の残りの時間では、この数字について意見を集めたいです。タテワリに なるかどうかはひとまず忘れて、どのくらいの人数規模だったら、協力関係 がうまく維持できるようなチームを作り出せるのでしょうか。「場」の共有 を実感できるようなチームワークのための最適人数を考えるということです。

会社への帰属心は薄れているのが現代日本の特徴でしょうが、会社内の小集団 をうまく設計すればそのグループへの帰属心は堅いものにでき、結果として 会社全体の業務改善にもつながるのではないかという問題意識が背景にあります。

何人のグループならいいのか、人数以外にどのような配慮が必要か。 意見を出してください。

[01794] マイクロ・ファイナンス

大平です

マイクロファイナンスと呼ばれているものがあります。 貧困者への融資を通常の銀行がおこなうことはないので、極貧生活をしている 人だけに融資をする特別な機関がバングラデッシュで設立され、その成功に 刺激を受けて世界中に普及しました。

このマイクロ・ファイナンスの成功のカギになったこととして、融資を受ける人 たちの連帯責任性の仕組みを作ったことが脚光を浴びています。 融資をするときに、個人に融資をするのではなく、まず5人組を作ってもらい、 そのグループに融資をする仕組みにしました。個人で融資を受けるときには、 甘えや狡猾さを出してしまうこともあったかもしれないのに、5人組という組織 を作ったことで、互いに監視もするし、協力もする関係ができたので、返済が きちんとおこなわれ、マイクロ・ファイナンスがうまくいったと言われています。

「場」をうまく外部者が設定することで、協力関係を生み出せる好例ではないで しょうか。場への帰属心の存在や、その帰属心が組織運営を効率化させることは 日本だけのものではないことを示していると思っています。

[01795] 小集団の規模

くろだです

私の勝手な意見ですが、小集団の規模は5人以上10人までが 望ましいです。

一人の人間がちゃんと面倒を見切れるのが、この人数ではない かと実感しています。 私が組織を動かすとき、必ずこの位になるように配分します。 1人が10人の面倒を見る。仕事の内容でそのチームがいくつ 必要かを調整します。 連帯感が維持しやすく、組織として機能する最小単位では無い かと思っています。

話は飛びますが、京都の店で「一見さんお断り」と言う小さな店 がありますが、何でですかと聞いたところ10人以上のお客さん をとると、ちゃんとしたサービスが出来ないからと言われました。

本当かどうか知りませんが納得してしまいました。

[01796] グラミン銀行とトナリグミ制度

ペネロープです。

マイクロファイナンスの制度について、バングラデッシュ・グラミン銀行の例が挙げ られていましたが、あの制度の融資を受ける五人と、大東亜戦争中のトナリグミ制度 とをちょっと比較してしまいました。

グラミン銀行から融資を受ける女性グループは、融資を得てそれを元手に商いをする という「目的」があって、グループがうまく管理し合いながらも調和できたと思いま す。しかし、後者は良いことがあまりなかったように、昔祖父母から聞きました。ト ナリグミ制度は「監視」に重きが置かれます。これは、集団の場への帰属心を高める ことには繋がりません。

[01797] 小集団の最適人数は15人くらい

イトウです。

小集団の理想的な人数は、直感的には私もくろださんと同じく5人から10人と考え ました。 しかし、考えてみると、15人から20人くらいのほうが良いかもしれないとも思い ました。 会社のプロジェクト・チームや子どものPTA組織(単Pでの各委員会活動や執行幹 部組織)など、ヨコ関係での小集団がうまく機能することを想像しています。 小人数ですと、個人間の摩擦などが起こった場合、それが全体に波及すると、パ フォーマンスを悪くする場合があります。ある程度の人数がいれば、全体への波及度 はそれほど高くなく、また、別の人との組み合わせの多さによって、そのうち淘汰さ れていくのではないでしょうか。ただ、やはりまとまりはつきにくくなっていくかも しれません。

また、配慮としては、相手への思いやりの精神を各自が持ち得ていさえすれば、同じ 人間、きっとうまくいくでしょう。各自があまり情緒的にならず、細かいことにこだ わらないでどんどん流して行く、事務的に対処していくというスタンスも必要です。 なんだか、個人ベースの精神論になってしまいますね。

[01798] 管理者とプロジェクトマネージャー

[1795]の意見、5人から10人という数に賛成です。 が、発想が私と違います。 「一人が面倒を見る」ということは、タテの構造的な発想です。 ひとりひとりが対等な関係の上でグループを形成するという場合、を想定して、5 人〜10人がうまく機能すると考えました。 そこには全体の意見をときとして取りまとめるだけの役目を、誰か中のものが担うだ けで機能すると思います。 プロジェクト・マネージャー的な立場ですね。 個々の人を管理するという発想ではありません。

[01799] 帰属心のニュアンス

大平です

帰属心という言葉に接すると、集団の目的に共鳴し、帰属することが喜びで あるかのように思えてしまう面もあります。

しかし、日本社会で企業への帰属心がかつてはあったとしても、はたして、 喜んで会社のために、というようなポジティブな意味での帰属心だったので しょうか。帰属心があるかのように行動していれば、会社が守ってくれると いう意味での打算だったと思います。「集団主義」は性悪説に基づく個人 主義と対立するものではないです。いまでも会社がそれなりに社員のこと を考えた制度を作れば、自然に帰属心に基づく行動をとるということです。

帰属心の本質を究めようとすると心の中の問題になってしまいます。表面的な 行動で帰属心のあるなしを判断するべきと考えます。グラミン銀行=バング ラデッシュのマイクロファイナンスにおける5人組と、戦前のトナリグミとの 間に性質上のちがいはないと言うべきではないでしょうか。問題になるのは 集団の目的を達成できるかどうかだけであって、内部での感情の問題は考え ても仕方がないように思えます。

[01800] Re: グラミン銀行とトナリグミ制度

マイクロファイナンスを検索してみたら、沢山情報が出てきました。バングラデッ シュばかりでなく、ミャンマー、東ティモール、インド、フィリピン、スリランカで も適用されているみたいですね。とても興味深いです。

18才から48才まで女性参加者が5人で1つのグループを作り、そのグループが4つで1つ のセンターになる。参加者は自分たちでグループリーダーを選び、グループリーダー は主リーダー、副リーダーを選び、それぞれを助ける。

この制度だと日本人が得意とする小集団の中での協力ばかりでなく、苦手とされる小 集団同士の孤立も防げるのでしょうか。

[1796]方がトナリグミ制度は「監視」に重きが置かれたのでうまくいかなかったと書 いていらっしゃいますが、マイクロファイナンスの制度も「監視」がおかれているか ら成功しているのではないかと考えてしまいました。

トナリグミ制度について知らないので、ご説明いただけないでしょうか?

[01801] 支配イデオロギー論としての日本文化論

小雪です。

吉野耕作は『文化ナショナリズムの社会学』で、恐ろしいことを言っています。ここ に引用を紹介いたします。長くてごめんなさい。

 「支配イデオロギー論によれば、現代資本主義社会の『安定』は支配階級が巧みな イデオロギー操作を通して被支配階級を社会に統合させた結果として理解される。同 視点から見れば、日本人論はイデオロギー操作の一手段である。(中略)  とくにタテ社会論関しては、近代日本において、資本家と賃労働者の階級対立もな ければ、階級的連帯もなく、ただあるのは上下のタテ関係である。そうでしかありえ ないのは、日本文化の特質、民族的性格によるものだという議論の立て方は資本家や 企業経営者にとってうってつけのものであって、大企業から手厚くもてなされている のは当然であろう。」

現代日本の「タテ社会」は、独占資本と国家権力の癒着のもとでの権力支配によって 成り立っているのであり、タテ社会論はその意味では日本文化論というより政治イデ オロギーであるという意見です。

Alas....

[01802] 意識調査

田貫です

いまさらですが、意識調査について感想です。

正直なところ、問題文の意味がよくわからず私は答えていません。 たとえば、組織が反契約精神っぽい、組織の人間関係にエモーショナル な関係がある、の二つはどうちがうのでしょう。その他の質問もわかり ませんでした。

文句を言いたいわけではないです。いま出ている結果を見ると、回答数は 少ないものの、結果がばらつく感じですよね。aかbかを答えた人にとって も、どちらと答えるか迷うような内容だった、つまり二項対立での問いかけ が無意味な内容の質問だったのではないでしょうか。質問文の意味がわからない というよりも、どう答えたらよいのかわからない内容だったのかもしれないと 思っています。アンケートの不備だけでなく、タテ社会論がこういう性質を もったものなのかもしれません。

アンケートを作った小雪さんのお考えが投稿されるものと思っています。 期待しています。

[01803] Re: 意識調査

小雪です。

田貫さま、意識調査に関するご意見本当にどうもありがとうございます。 皆様を困らせてしまったようで申し訳ありませんでした。

あの質問は『タテ社会の人間関係』に書いてあった項目を並べ立てただけです。著書 に忠実に従おうと思ったら「組織が反契約精神っぽい、組織の人間関係にエモーショ ナルな関係がある」という箇所が出てきてしまった次第です。

組織は単に排他的に対立しあっているわけではないのはおっしゃるとおりです。

前にもご指摘がありましたが、やはりこういった二項対立の意識テストは無意味とい うことなのでしょうね。

[01804] 隣組について

くろだです。 まずは情報をひとつ。隣組はその地方地方で多少性格が違っていたようです。

調べたら、戦前戦中の隣組の結成は強制的なものでした。

以前、私の母に隣組の事を聞いた事がありましたが、熊本市も空襲があって大変だっ た そうで、隣組が力を合わせて消化活動をがんばって仲良くやっていたそうです。 構成する人によって組織の性格は変わるのだろうと思います。 「組織は人なり」と言うことでしょう。

[01805] Re: 支配イデオロギー論としての日本文化論

小雪さんの『文化ナショナリズムの社会学』を読んでの投稿です。

私も、日本文化論は、イデオロギー論の何モノでもないと思ってます。 吉野の指摘は、支配階級が操作する文化の話でもあると思います。そして、 それは、非常に”社会学”らしい解釈だと思います。 多様な人間を十把一絡げ にするのは、イデオロギーのなにものでもないですし、私たちが帰属していると 考える会社や社会で、社会的に、経済的に地位を得ようとするという意味は、ほ ぼ、西欧的、資本主義的価値観に根づいているからです。

[01806] 小集団といえば・・・

小集団というと、小集団活動(TQC)などを想起させます。 (とても、古いですねぇ。)

5〜10人で、共通の課題をもって、問題解決するというものです。 この数字が適正なのは、適度に全員が参加できるからでしょう。 また、このグループ活動に絶対的に必要な存在は、リーダーシップ です。 どなたかが言っていた、プロジェクト・マネージャーとい うのが今風なのかもしれません。

参加は、同じ部署である必要がありません。隣の部署からの参加で、 ヨコの関係を利用して、ある種の問題解決をする、というイメージが あります。とても、優れた方法とも言えるかもしれません。  しかし、当時のこの活動の実態は、無償の時間外勤務というイメージ の方が強いかな? フフフ。

[01807] しばられ地蔵

ペネロープです。

[1799]大平さんの
「帰属心があるかのように行動していれば会社が守ってくれるという意味での打算 だったのでは」 という意見に対して異を唱えます。 愛社精神は存在します(かつてあった、と言い変えた方が良いかもしれません)。 打算だけではなく、ほんとうに会社が大事でみなが経営者的な視点に立ってしまう (雇用者でありながら)というのはあったと思います。 一種、お国のために的なナショナリズムでしょうか。まさにイデオロギーです。

[1800]の方の質問に
グラミン銀行のケースについてですが、たしか記憶では、この女性五人組というの は、もともと仲良しの人で最初から信頼関係があって、グループを組織したと記憶し ています。

そして、五人でなければ融資が受けられないという制約を銀行側が提示していたの で、一人でも欠けることができないし、誰かが返済の滞納をして機能しなくなるの は、グループ全体が融資資格を失い、困るということになるのです。監視的要素はあ りながらも、信頼関係がまずグループ間にあったうえで形成された小集団だと理解し ています。

トナリ組制度では、(戦争を知らない世代ですが)お隣サンの動向をお互いうかがい あって探るという国家的任務がが重要目的で、政府が実施したという認識です。トナ リ組に入っていないと必要物資の配給が受けられません。生活インフラとの引き換え に、国が監視していたわけです。

・・そうか。たしかにグラミン銀行の五人組もトナリ組も、監視機能がある点で結局 同じかも知れませんね。

[01808] 小集団、忠誠心

大平です

タテ社会論を科学の俎上で語るのは無理っぽいので、思いっきり世界観の話、 役にたつ話との両極端で投稿します。まず役にたつ話。 といったことをいままでの意見から読み取りました。

『タテ社会の人間関係』で集団主義という考え方を批判しています。(p.57) という主張です。私の主張も基本的に同じです。 です。会社が個人を守ってくれなかったとしても忠誠をつくしたでしょうか。

仕事の内容が楽しいと、忠誠心ということとは別に、会社への帰属心が 生まれる可能性はあると思っています。小集団での活動がその点に寄与する 可能性について考えています。その点についてはまた投稿します。

[01809] 世界観としての社会学

大平です

何かの言説が社会の中でどのような意味をもつかを考えるのが社会学の役割の一つ なんだということが01801、01805の投稿でわかりました。階級論を否定するため のタテ社会論なんだという論法はよくわかりました。(それが西欧的、資本 主義的価値観と判断する根拠はわかりませんでした)

なんでもかんでも階級論にしてしまうマルクス的言説には辟易することもあるん ですが、彼らのタテ社会論の評価については素直に理解できました。タテ社会論 は徹底した平等主義に基づいており、誰でも支配側になれるという考え方 ですよね。支配−被支配の構造が固定されていることを批判したい人たちに とっては非難の的になるんでしょうね。

でも、平等主義的イデオロギーのバイアスがかかった見方であることを自覚し つつ、階級論よりはタテ社会論の方が(高度成長期までの)日本社会を適確に 表現しているのではないかと思います。(天皇制問題、差別問題は別)

[01810] 身近な社会の視点から

「仕事の内容が楽しいと、忠誠心ということとは別に、社会の帰属心が生まれる可能性があると思っている」との大平さんの指摘は、なるほど・・と考えさせられました。 「忠誠心と帰属心」は異なるものだなと今更ながら・・というより初めて意識しました。

プロジェクトという小集団を形成した時、共通の「資格」により有益な結論を導き出す事が可能となりますが、有効に働かせる何かは「帰属意識」で「忠誠心」ではないですね。

「場」の環境ではないな・・と何となく考えました。

マルクスの階級論では、私なりにはある側面からの納得観があります。「ものの見え方」による「階級意識」つまり、人間は「どの階級に属するか」によって「ものの見え方が」変わってくる。という主張が組織の中での成長と思えます。以前、上司が「立場が人をつくる」と言っていたのを思い出します。

小集団の人数について「01795」さんや「01798」さんと同様10人以下が機能するのではないかと実感しています。そして「小集団のなかでは協力はあるが小集団同士の協力はない」という日本社会の特徴もまさに実感です。

いかなる組織にも必ず「コア・グループ」が存在すると言われ、その「コア・グループ」が組織を動かしているとさえ言われています。そのグループは組織の全構成員の5%以下が普通なのだそうです。

しかし、いかなる場合もそのリーダーの存在がキーになるのではないかと思えます。「危機に際して思いやりの心を失うことなく人々を先導するリーダー」の集団では必ず帰属がが生まれると考えます。

[01811] ぷろりん

マリアンネです。

今は亡きインテリ夫マックスが、研究論文の中で、資本主義的精神の形成には、プロ テスタントの脅迫的倫理観念が大きく寄与していると、ある意味無茶な論法をしまし た。 宗教改革者カルヴァンの説教を、次のように斜めに捉え拡大解釈をして捻じ曲げまし た。

「天国へ行かれるか否かは神のみが知る既存事実で、自分が果たして天国行きか地獄 行きかはわかんない。後から改宗したり、懺悔したってダメ。免罪符もらってもダ メ。天国行きのキップはもらえない。だからひたすら超禁欲的に自分の天職を全うす ることで、あたしゃアノ世に行かれるわ、オレは行けるに決まってる、と思い込みた い、ってな人情が、後世の資本主義台頭に大きく寄与した」と。

「働くことは美徳で、その結果として儲かるわけだから、金儲けは悪いことじゃな い。副産物としての財産は、得て当然」 という考え方に支えられて、印刷屋のベンのように「Time is money」なんてことを 言い出す子が出てくるってわけです。

[1805]のかたが、日本を「西欧的、資本主義的価値観に根づいている」 とおっしゃった意味は、こういったマックス説に基づく資本主義精神論が、明治以降 日本においても、企業の中核的な倫理・精神論を支配したと考えられたんじゃありま せんこと? おもいっきりはずしてたらごめんあそばせ。

[01812] Re: 世界観としての社会学

小雪です。

大平さん、なんでもかんでも階級論にしてしまうマルクス的言説には辟易するという ご意見わかります。

ただ『タテ社会』が出版されてから、中根は経営陣のリーダーシップトレーニングや セミナーに引っ張りだこだった(である)事実についてはどう解釈すればいいので しょうか?

中根が意図したか意図せざるに関わらず、タテ社会論が社会安定論として機能してい るという指摘は見逃してはいけない気がしています。

タテ社会論を支配イデオロギーとして位置づける論者は少なくなく「もっともソフト でかつ穏微な体制擁護論」と呼んでいる学者もいるようです。 『タテ社会の人間関係』のアイロニーというべきか。

皆さんはどうお考えでしょうか?どんな意見でもいただければ幸いです。とても勉強 になります。

[01813] タテ社会批判

タテ社会は日本独特の文化というのは幻想で政治的現象であるという主張です。

Nakane stresses vertical relationships as cultural phenomena rather than as political phenomena, overlooking the fact that Japan is one of the most politically centralized nations in the world....Power is more centralized in Japan than in other industrial countries, and Japanese managers seem to enjoy more rights vis-a-vis the worker than do managers in other countries... (`Constructs for Understanding Japan 'by Yoshio Sugimoto and Ross Mouer)

[01814] タテ型社会論

1805です。
帰宅後、メールを開くと、議論がいろんな方向に進んでいた。

1.なぜ、イデオロギー論か
中根の「タテ型社会論争」は、あまり知りませんでしたが、この論争が 成り立っているのは、やはり社会学的世界なのではないでしょうか。 そもそも、日本の初期社会学者は、マルクス主義者というのが一般的な 言われ方ですし、社会学というのは「個人は社会から規定されている」 という考え方の根強い学問だと思ってます。だから、階級論とか、イデ オロギー論になり易いと思います。最近、イデオロギーという言葉を避 けているのは、戦争の失敗によるトラウマでしょうか・・・

2.ぷろりん
ウェーバーの、プロ倫か、または他の文献で、アジア社会の研究を述べて いるところで、日本が近代に飛躍的に発展するポテンシャルがあると指摘 していたのですが、その理由に、封建社会の土台があることが挙げられて いたと思います。 中央集権国家だった、という指摘があったかどうか、 私の脳みそは定かでありません。個人的には、中央集権の方が言い当てて いると思います。

3.中国社会
どなたか、中国の歴史について詳しい方いらっしゃいませんか? 昔、何かで、中国社会は、「権力がみえる時はタテに。見えない時はヨコに 作用する」と聞いたことがあります。個人的には、危機や、急場という場面 では、タテになり易いのでは?と思います。 戦後の日本の急成長は、政府 主導の戦後復興という急場で、もっともタテ作用が働きやすかったのでしょ うか? 会社の組織だけを取り上げてタテを論ずるのは、ちょっと違うのでは? ましてや、「日本人が帰属意識が高い」という論調は、権力(政府や、その 当時の有識者など)の操作では?

4.なぜ、アメリカリベラルな大平さんは、タテ論に違和感を覚えるか
同じくウェーバーの指摘で、マリアンネさんの引用の通り、プロ倫の最たる 実証は、アメリカだったのでしょう。なんたって、神の国ですから。その神の 国のもとでは、市民はみな平等です。先ほどの、日本の中央集権や封建土台 とは違う土壌なのに、発展できている例なのです。

同じウェーバーからの指摘なのに、なかなかおもしろいです。 ちなみに、私が「西欧的、資本主義的価値観に根づいている」といった意味は、 日本が、戦後復興として目標にしたのは、欧米だったという単純な話と、私たち が「リッチな生活」と呼ぶものは、西欧的なもの、逆輸入の日本文化が多いなぁ という実感からです。戦後目的にしてきたものだから、しょうがないけど・・・。

[01815] 自文化再考

 結局、私たちは自文化についてわかっているのでしょうか?どんなに議論を重ねて も他文化についてはわかりますが、自文化については実は何もわかっていないような 気がしています。

 だから、中根とかに代表されるような日本人論者を当てにするのでしょう。しか し、多くの日本人論は執筆者の個人的経験や日常のエピソードから都合のよい例ばか り集めてつくられた理論なので学問的価値があるのか、それよりも真実かどうか大い に疑問です。

 なぜ彼らは都合のよい例ばかりを集めるのでしょう?私には彼らの海外経験不足な のではなく、インテンショナリーに行っているとしか思えないのです。日本人論が支 配層の利益に合致した保守的なイデオロギーとして作用するように作為的に仕組まれ たとしか思えないです、あまりにも真実から遠いから・・。

[01816] Re: 自文化再考

追伸です。

中根の日本人論を日本をよく知っているインド人に説明したら、「それはまさにイン ド人の特徴だよ」と言われてしまいました。このように多くの日本人論は人間一般に 渡る普遍的な現象の描写のような気がしてなりません。

[01817] 100年前の文化で食ってる日本

日本の文化は明治以降ほとんど進歩していないとする論があります。 「日本は1世紀以上も前の遺産的文化で食っている」というのです。 ものすごく説得力がありませんか?

技術革新や経済発展の影で、これといった文化的功績が、新しく加えられたページが ないんだ、という説です。

[01818] 体制擁護としてのタテ社会論

大平

「タテ社会」の議論はきわめて平等主義に基づいた考え方であり、中央集権を はじめとするタテワリ集団の中で下から上へと誰でも上昇する可能性があること を前提にした上での議論。持てる者と持たざる者というような意味での階級 関係はないし、ましてやカースト的な身分差別もない。その意味でマルクス主 義者からは、体制擁護の考え方として批判される。

こんな理解をしています。(日本の実際の格差の問題については別テーマでの 議論できちんとした方がいいと思うのでやめることにして) 『タテ社会の人間関係』が執筆された当時は、労働組合運動が盛んでしたが、 タテ社会論が出ることで、日本は誰でも上へ上がっていける社会であって、 労使の対立を声高に叫ぶのではなく、上にゴマをするにせよ、人間関係を円滑 にすることに努力にせよ、とにかく調和を守っていれば、確実に生活状況がよく なると説得する手段ができたことはまちがいないでしょう。

このように「タテ社会論」がつかわれたことに私は違和感を感じません。 また、下から上への移動ができるという事実認識については、少なくとも 大企業については中根氏の方が正しかったと思います。(中小企業や農村の 問題については別なので、マルクス的見解がこちらを重視するのなら、私は そちらに賛成)。

私が指摘した違和感は、「日本の集団は必ずタテワリになる」という命題です。 それ以外の点については、おおむね『タテ社会の人間関係』に書いてあることは 断片的ではありますが、説得的だと思っています。断片的な事実から一般的な 命題を出すことも学問では必要なことですが、どのような事実を発見すれば命題 を反証できるかを明示しない点で科学的価値はないことだけは繰り返します。

[01819] ビジネス界での読まれ方

大平です

「経営陣のリーダーシップトレーニングやセミナーに引っ張りだこだった (である)事実があること」は知りませんでしたが、別に不思議はないです。

リーダーがもつべき条件、組織つくりをする上でのタテ、ヨコの組み合わせ など、いくつも考えるための材料を提供している本だからです。書いてあるこ とが真実である必要は必ずしもなく、どれだけ考えるための材料を提供してい るかもこの種のセミナーでの教科書には必要なことです。

放っておくとタテワリになってしまい、組織の効率性がそがれることがあるよ、 という警告の書として読む意味もあると思います。また、能力主義も導入しないと いけないよね、と反面教師的に読むこともできるでしょう。

そういう意味で、役にたつ議論を提供する本としては『タテ社会の人間関係』は 名著だと思っています。学問的評価と、実際のビジネスの現場での有用性とは 関係ないことです。ビジネスの世界では、真実は教科書の中に書いてあるので はなく、教科書に書いてあることを参考に現場で作るものです。逆に言えば、 教科書の中には真実がなくてもいいのではないでしょうか。
(ちょっと過激ですね)

[01820] 大企業だと最初ホントに皆平等?ウッソー!

よーこです。

中根がタテ社会の特徴のひとつ「下から上への移動ができる」構造が大企業にはある という意見に対して、それはタテマエ上のことではないか、と言いたいです。だから 社内研修の教科書になるんじゃないのかな。

政府官庁のキャリア、ノンキャリアほどではないにせよ、学閥とか出身成分(どこか の国みたい!)など、さまざまな個人の要素を、入社時点で人事が把握しているので はないでしょうか。配属もキャリア組(将来的に幹部候補となる群)の場合、特徴が ありました。

入社したときから同期の中で誰が『王子様』か、女子社員は知っていて、合コンなど でも、「あれ?なんであの彼あんなにモテモテなの?」と聞くと、「あー、だってカ レってば、ほら…将来の」みたいなことを事情通のコが言っていました。結構保守的 なお役所的な大会社や、オーナーカンパニーにはありがちなことではないかと思いま す。

だけど、最近だいぶ変わってきたみたい。「え〜!あのヒトがあのポスト??」みた いなのもありますが。

[01821] Re: 大企業だと最初ホントに皆平等?ウッソー!

今時、合コンという場にいったことのない珍しい私ですが、なんとなくよーこさんの おっしゃっていることに納得しています。

ただここでの問題は、イデオロギー操作、つまりタテ社会文化が故意的にインプット されたのか、それとも入社した時点で既にタテ文化は生得的であったかということで す。そういう素朴な疑問を検証するのはほとんど無理であるのではないかとも思えま す。(というか、今まで誰もしていない)

あー、どなたか知恵をくださいませ。

[01822] 実証の問題

1805です。
やっと、夕飯食べ終わりました。 それでは、私の違和感を話します。

今回のML討議の中心は、タテ社会論の実証性と思います。 そして、断片的にみれば、「タテ社会」は正しいです。 しかし、「タテ社会」→戦後日本の急成長、というような因果関係を 結んだ途端にその例証、反証が問題になるのだと思います。

だとすると、このMLでは、中根を読まなくてもよい、といのは あり得ないと思い、私は今回のテーマでは参加できないと思ってました。 未だに「タテ社会」の中根定義が精確にわかってません。

しかし、イデオロギー論となると違います。「タテ社会」の妥当性や、 支持性を探りながら、「タテ社会」という装置がどのように社会に利用されて きたのかを、推測してみよう、というのであれば、中根を離れたところに 学問的価値を見出すこともできると思いました。

[01823] Re: 実証の問題

[1821]です。さっき寝ぼけたまま書いたので、勝手に話を進めてしまいました。よー こさんごめんなさい。

[1822]の方、「中根を読まなくてもよいといのはあり得ないと思い、私は今回のテー マでは参加できないと思っていた」と書いていらっしゃいますが、とても残念だと思 いました。

「タテ社会」という装置がどのように社会に利用されてきたのかを、推測してみよ う、というのであれば、中根を離れたところに学問的価値を見出すこともできる・・ とおっしゃるのもごもっともです。

私もタテ社会という装置ががなぜ(断片的にでも)人々に了解され作動しているの か、知りたい気がしています。

タテ社会の温存は政治力学としての文化装置なのでしょうかね、やっぱり?

[01824] 議論による実証性多少探れたのでは

イトウです。

[1805][1821]さんの指摘は全くその通りだと思います。 私は本テーマでの議論が終わるまで、中根の本は読まずに参加しつづけてみようと思 いました. どこまでテキストを読まずに、議論ができるか、やってみたかったのです。 中根に感化されずに、私が体験した(というより私が主観的に捉えている)社会構造 を、この議論の中に投じてみたかったからです。実証性を探りたかったということで す。 そして、多くの具体例を伺いたかったです。

思想や政治の問題は、こうした社会における実情を話す時に避けて通れないのは、現 実問題として当たり前です。 が、ここでそれらを混ぜ込みすぎると、あまりにたくさんの要素を考えなければなら ないので、頭の中がタテとヨコの線以外に、斜めの線や曲線まで書き込むことになり ます。こうなるともう、頭の中はマックロケ、です。

今回この議論の中で、さまざまな職場環境や社会のグループ構造の具体例を教えてい だけて、私はたいへん興味深かったです。

企業に就職すると、まず社内研修があり、(最近は無いところも多いでしょうが)、 この研修期間中に、企業の論理を植え付けられて、ある意味「洗脳」されます。 社会人が、ここからスタートするこの構造が、もしかしたら「タテ社会」の功罪なの かもしれません。 あくまでこれは、「タテ社会」を批判する立場でものを言った場合です。 しかし、日本の文化的要素を含めて「タテ社会」を考えると、一概に批難的立場をと ることができませんでした。

ようやく図書館で予約していた「タテ社会の人間関係」が手元に届きましたので、こ れから読むことにします。

[01825] 1967

そういえば『タテ社会』が出版された年は1967年。
大平さんもおっしゃっていたように、この頃は高度に産業化された社会が生き詰まり 始めた時期で生産至上主義へ異議申し立てが学生や労働者を中心に広がっていた。 同時に第二次フェミニズムの高揚期でもある。家父長制批判のラディカルフェミニス トが生まれた頃でもある。 中根はその真っ只中にこの本を執筆しているが、フェミニズムに関してはなにも触れ ていない(と思う)。 中根はフェミニズム的な論点をどう消費していたのだろう?

[01826] 中国の社会がヨコなわけ

ミンミンでーす。お・ま・た・せ。

中国の義務教育の歴史教科書というものを見てみると、ナショナルアイデンティティ を強く感じます。それと同時に、なんとなく中国人の特徴のようなものも、解るよう に思います。もちろん、政治的なバイアスはものすごくかかっていますから、そこは 片目を瞑って読まないとダメです。

まず、4000年前の黄帝に遡り、黄帝と炎帝の話をルーツに、中国四千年悠久の時を越 えて、我々中国民族は、この炎黄の子孫であることに誇りを持つのだと、序章で歴史 教育が始まります。 多民族国家中国。その変遷は、民族の戦いの歴史です。 多民族国家を束ねるには、中国というくくりでの共同体意識を共有させること、中国 民族としてのアイデンティティを強く植え付けることが政治的に必要であるがゆえ に、こういった教育をしていると読み取れます。 また一方では、歴代皇帝が戦いによって交替するたびに、序列も振り出しからやりな おしになるという遍歴を繰り返してきたわけです。 だから政権が変わるたびに人の序列は替わって来たという歴史的背景があるんです ね。

そして、中国人にとって商売繁盛は美徳なのですが、このあたり、儒教・道教的な倫 理観でいくと、キリスト教文化圏とは違って、労働の副産物の富ではなくて、財を成 せば勉強できる。そして自分自身を高められるという、富の是認です。 これが、あくまで現世を楽しむ、個人の楽観的な(大陸的と日本人はいいます)気質 を生んでいるのかもしれません。

このあたりはミセス・ウェーバー、マリアンネさんにうかがいましょう。 「はい、マリアンネです。ええ、夫は生前アジア、特に中国研究を頑張りました。 『宗教社会学論文集』中の『儒教と道教』で、その研究成果を紹介してみましたの で、是非ご覧あれ。」

[01827] 日本人はコクマルガラス?クラゲ?

続けて、ミンミンでーす。
もうすぐこの議論が終わるというのに今頃ゴメンナサイ。

中根は1978年に『タテ社会の力学』を書いていますが、その巻末に動物学者との対談 が掲載されています。 動物学的視点で見ると、日本人は“序列”に関して、コクマルガラスと同じ行動性向 を持つのだそうです。

1.2.3.4.5の序列はいつも同じ。1はずっと1だし、2も3も順番はどんな 時も変わらない。そしてその順番は「わたしは1の次で3の前」という具合に、全体 を見て自分の位置を決めるのではなく、なんとなくその順番に従うというものだそう です。

これに比べて中国の場合は、序列はあっても順番は入れ替わることがあると言ってい ます。中国だと、王朝が交替するたびに序列が毎回入れ替わるシステムだったからだ そうです。 中国に関する限り、中根もウェーバーも同じことを言っているように思います。 私もこの点はうなずけます。

この対談ではさらに、日本は「クラゲ社会」とかなんとか、中根のオバサマは言って ます。

[01828] やっぱり場の理論

大平です

私が01818で書いたのは、タテワリの中での下から上への移動なので、大企業の 社員全員の平等は意味していません。マルクス主義的な意味での階級は のちがいを指す概念です。工場の中でも何らかの管理的役割をもつポジションに つくのがふつうなので、マルクス的な意味での労働者が日本の大企業にいたとは 思えないということを書きました。 いわば、昇進の範囲が異なるグループという意味での一種の階級の存在は前提に して、どのグループの中でもほどほどの出世の可能性があるという意見です。

しかし、それならば日本=平等社会なんていわず、階級社会と言ったほうが いいのではないか、という批判として01820の投稿を読みました。なるほど そうですね。学閥、あるいは学歴と出世との関係はいまでも保守的な組織では 大きなものです。ましてやバブル前だと、企業に就職した途端に20年後の自分の ポジションがだいたい見えていることが結構ありました。マルクス的な意味では ないですが、一種の階級があったというべきでしょう。

下から上への昇進は誰にでも無制限にあったわけではないので、上下の移動 の平等性からタテ社会論を安定装置とすることはありえないということになり ます。社会安定論としてのタテ社会論ということを言うとしたら、場への 所属が生活に安定、ひいては社会の安定にもつながるという側面に注目すべき なんでしょうね。やっぱりタテ、ヨコの問題ではなく、場への帰属心の理論と して『タテ社会の人間関係』を読む必要があるようです。

[01829] 全体が個を規定する

大平です

実証性という観点から『タテ社会の人間関係』の中で検討すべきは「日本の 組織にはヨコ関係がない」という命題と判断しました。それ以外にいろいろな ことを書いていますが、断言しているだけで理論命題と呼べるようなものは 一つとしてないというのが私の読み方です。ヨコ関係がないという命題に ついて議論をした結果、次のような結論が出たと理解しています。 社会の中で個人行動を説明する&社会情勢に応じて企業の反応を考える方が、 個人行動から社会現象を説明するより説得的だと私は思うので、このような 解釈で納得しました。(個→全体、全体→個、あるいは経済→意識、意識→ 経済のどちらかだけを選ぶ二元論も単純すぎるのは承知しています。)

「タテ組織→高度成長」「高度成長→タテの存続」のどちらが正しいかを実証 するのは大変な作業です。高度成長下でタテワリがあったことを観察で きても、どちらが原因でどちらが結果かを簡単に結論できないことは確かです。

[01830] Re: やっぱり場の理論

夕食は、今日は、すこし早かったです。 夜、開くメールは浦島太郎のように時間経過が早いです。

「場の理論」は最初、タテ社会の要素として入っていたと思いますが、 アメリカを例にする場合、「ぷろりん」ではありませんが、プロテスタン ティズムという「場の理論」が働いているように思えるのです。 そして、それが、市民という平等の権利(資格)を持つアメリカ社会の基礎 を成しているように思えるわけです。 

追い討ちをかけるように、1826の「中国社会がヨコなわけ」に通ずるものが あります。ただし、そこでは、帰属性をアイデンティティとおっしゃている。

タテ、ヨコの話に戻れば、「ヨコが効率的」の理論は、まだ、あまりよく、 飲み込めませんでした。タテはそんなに非効率なのでしょうか? (今頃、すみません。)

いずれにしても、イトウさんのおっしゃる通り、中根を読まなくても、充分 議論はできていたと思います。

[01831] タテ、ヨコと効率性

大平です

ヨコ組織の方がタテ組織よりもいつも効率的ということはないです。

本来、組織はタテワリであることが理想です。末端は決められた日常業務を たんたんとこなし、例外的な決定をしなければいけないときにそれを上に 決めてもらい、決まったことは上から下へ通達することで、組織全体に情報が いきわたる。そんな組織がもっとも効率的です。(たぶん軍隊が例)

しかし、組織を作ってから時間がたつと、時代の変化で、最初に想定して いたルールでは対応できない例外が多くなりすぎ、それらをすべて上で 決定することは不可能になっていきます。そのとき、ルールにないことだから という理由で例外ケースを無視してしまうのがタテワリの硬直性の問題になり ます。利潤(あるいは理念)追求を真剣に考えている組織では、多くの例外に 効率的に対応するためにトップの決断ではなく、ヨコ組織を作ることで対応し ていくはずです。そうすることで上(トップ)は重大な決断だけに専念すること ができるようになり、組織全体としての効率化が達成できます。

高度成長期は、 などの特徴があったために、例外への対応に力を入れる必要はなく、タテワリの ままでもいい組織が多かったのではないでしょうか。

[01832] 日本人のタテ意識

大平です

『タテ社会の人間関係』がベストセラーになったことは、それが日本人のタテ 意識を作りだしたことを意味するわけではないですよね。

(1) タテ社会論の出版→日本人が自分たちの社会をタテ社会と認識した
(2) 日本人は自分たちの社会をタテ社会と感じていた→それをタテ社会論 としてまとめた

(2)の方が正しいのではないでしょうか。(二元論の単純さは意識しつつ)

(3)「タテ社会と感じる=上下関係の厳しさを感じる」という理解と『タテ 社会の人間関係』で言っていることとは同じではないはずなのに、多くの人 は、(3)を常に感じているので、タテ社会論を支持してしまった面はあると 思います。

この本をつかってイデオロギー操作を意識的にしたかどうか、なんてことは いくら推測しようと思っても、材料なしにわかるわけがないです。それを調 べるためには企業の中で実際にどのようなセミナーが開かれたか丹念に事実 を集める必要があるでしょう。

この時代に『タテ社会の人間関係』が出版された意義や思想史上の位置づけを おこなうことはできるでしょう。その点については、マルクス主義的な社会 運動が盛り上がりつつある時代に、それと対抗する(体制側)の思想として 出版されたと理解するのでいいんじゃないでしょうか。もちろん、著者の 意図とは関係ない話です。