経済問題メーリングリスト
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経済問題メーリングリスト
2003年11月15日〜
ここにある文章は、一般社会人、学生、その他、とくに社会学を専門に学習しているわけではない者同士で、タテ社会について論じた記録です。

日本はタテ社会か、それはなぜか?

中根千枝『タテ社会の人間関係─単一社会の理論』 (講談社現代新書 1967)を取り上げます。

インターネット上でざっと検索してみて驚いたのですが、1967年の出版物だと いうのに、いまだに原著に対する書評、原著を元にした論説が膨大に見つかり ました。これだけ古い本だと、ふつうは後継者による批判が積み重ねられて、 原著よりは洗練された形で論考がまとめられているものです。いまだに 原著をめぐる論説が出され、大学でのテキストでも取り上げられているという ことは、内容の成否とは関係なく、この本が古典の地位にあることを意味して いると思われます。

しかし、ここで疑問があります。『タテ社会の人間関係』は、いまだに日本 社会の基礎にある真実を語っているから読み継がれているのでしょうか。それ とも、現代には通用しないけれども、ある時代の日本社会を的確に説明する ものなのでしょうか。

また、もう一つ考えるべきは、「タテ社会」は日本だけの特徴なのだろうか ということです。日本=タテ社会と言われると、なんだかそうかなという 気持ちになってしまうかもしれませんが、本当にそうだとしても、日本以外の 社会がヨコ社会になるわけではありません。

この本では、社会集団の構成要因として「資格」と「場」との区別をします。

資格 職業、血縁、身分などの資格によって集団が構成される。
地域、会社などの一定の枠によって集団が構成される。

日本は社会では「場」への所属が自己の存在を確認するより所になっていると 主張します。組織の中では、同一資格保持者であっても、上下の差が設定される ことで序列が形成される。その意味でタテ社会ということです。

場社会であることがタテ社会であることを説明するという論法ですが、これと まったく逆に、タテ社会であるから場を重んずる社会になったという仮説を 考えることもできます。その場合には、タテ社会(であるとして) である理由は、場社会であることととは別の根拠を探しださなければなりま せん。 など、いつものように、最初は自由に意見を出し合いましょう。4,5日間は 自由に意見を出し合い、その後に司会者からテーマの絞込みの提案をすること にします。

[01674] タテ社会(=日本の社会構造)は理想郷

「タテ社会」って理想郷だと思います。能力主義社会で生きている人間にとって、上 下関係だけ上手くやれば時間と共に上にあがっていける社会って最高じゃないかと思 います。
相手の感情を害さないで、「今日は天気がいいですね」と言い合っている社会構造っ て心地よいですね。

[01675] 日本人はマゾ?

南博(昔の社会心理学者)は
「魚は水中にいて水を知らないといわれる。われわれ日本人は、日本で生れ、日本人 の中で育ち、生きているために、日本人の持ち前のよさについても悪いところについ ても、知ることが難しい」と言っていました。

しかし外国人が客観的に(?)書いた書物だって「(『菊と刀』を含めて)すごい見 当違いに思えます。

『菊と刀』などに対してそれを「そうかー、日本人ってそうなのかー、西洋風に思想 を変えなければいけない。」とマゾヒステックに見習う「特性」こそ日本人なのかな ?と思ったります。

*イタリア人も日本人はマゾっぽいと言っていました。
的確な発言?

[01676] 思いついたこと

言語と深く関わりがあるような気がします。 日本では尊敬語・謙譲語・丁寧語・謙遜語等本当に色々な 話し方があります。

欧米においては詳しくはわかりませんが、 丁寧な言い方はあっても尊敬語等は存在しないと思うのです。

確か中国語では目上の人に対しての「あなた」はニン 普通に「あなた」はニーと漢字が違っていたような気がします。 (漢字が出ないのでカタカナで表記) と言う事は東洋の文化にはタテ社会が?儒教あたりが関連しているような… でも、中国の円卓と言うのは上下なく(上座下座)食事を楽しもう と言うコンセプトだって聞いたことがあったような気がします。 そう言う円卓も日本人が作った物だって聞いたときは あれ?っと思ったのですけど。

別の意味で英などでは階級が出来ていて、他の階級との接触がないので 問題意識にも上らないって聞いたことがあります。 日本も身分制度が残っていたらどうなのでしょうね。

思いついたまでのことを書いてみました

[01677] 存続・発展・権利

ご紹介いただいた「タテ社会の──」は後日購入して読ませていただ くとして、予備知識のない現時点での第一感としての感想を述べますと、

いわゆる“タテ”(あるいは“ヨコ”)の関係には、個人の“権利” というものに対する「意識」が何か関わりがあるような気がします。

たとえば、私自身が「場」において自己をどのように位置付けるか、 ということと共に、「場」が“私”を何者として見るか、ということ がその「関係」を形成する上で無視できない要素になると思うのです。 大雑把に言うと、「私」という存在が、ある共同体の中で“肯定的に” 位置付けられるためには、「私」がその共同体に対して「危害(不利 益)」をもたらさないという保証が必要であると考えます。

つまり、「タテの関係」は「共同体」の存続を危うくするような力を 予め封じるために用いられるのではないかと思います。 したがって、その「存続を目的とする」共同体においては個人の「権 利」は第一義的なものにはなり得ず、「権利」という概念さえ必要と しない、と言ってもいいかもしれません。 しかし、共同体が「存続」のみならずその「発展」をも目的とし、他 の共同体との融合・合併を目指す場合は、「力ずく」という選択をし ないのなら、自他の「権利」というものに敏感になる必要があるので はないかと思うのです。 ゆえに、そういった共同体同士では“ヨコ”の関係が重視されると考 えます。

以上のように考えると、日本のように、閉鎖的で、自己の存続のみを 目的としてきたような社会では、「タテの関係」が形成されやすいの ではないかと思います。

提示された資料も読まずに第一感として発言させていただきましたの で、かなりピントはずれな意見になってしまったかもしれません。 読後にまた何か発言させていただければと思っています。

[01678] 司会:本を読む必要はないです

司会です

今回は『タテ社会の人間関係』を参考書にはしますが、この本を読まなければ 議論に参加できないわけではないです。読んだ人、読んでいない人それぞれの 意見が出てくるほうがいいと思います。読む前の意見と、読んだ上での意見と が同じ人から出てくるのもいいですね。概念を共通にしておく ことは重要ですが、このメーリングリストでは専門的な議論をするわけではな いので、「タテ」の概念は、直感的にこう思う、というレベルで把握しておく ので(当座は)いいと考えています。

ちなみに、このテーマで話すと、日本社会との比較の対象としてふつうの人は西欧 社会、とりわけアメリカ社会を念頭におくと思いますが、中根千枝さんは比較基準 として必ず西欧社会を設定する論法にきわめて批判的です。この本の中ではしば しばインド社会が比較の対象になっています。西欧以外の地域との比較でも日本は 特別にタテ社会であるというのが、中根氏の意見です。今回の議論では、日本社会 についての洞察だけでなく、西欧社会を含むいくつもの地域についての多様な見方 がでてくることが重要です。

[01679] タテ社会vs . ヨコ社会

タテ社会とヨコ社会の特徴をまとめると以下のようになるのかなぁ?

タテ社会 ヨコ社会

[01680] 徳川体制

中根千枝さんは、

「徳川体制というものはまず士農工商という身分に全人口をホリゾンタルにキリ、さ らに藩という『タテ』割を設けて行われたのであり、その善悪は別として、組織とし て、『ヨコ』『タテ』両者を交錯させているということで、これはまことにすぐれた ものというべきであろう」(p.113)
と述べていました。

この近代以前に完備された中央集権官僚体制が、日本社会の「タテ」構造の発達に大 いに役立っているそうです。

そうなのでしょうか? 歴史が疎いのでどなたか教えてください。

p.s.中根さんはちなみに田中真紀子さんのブレーンでもあると伺いました。

[01681] 権威主義

日本が、明治以降、大きく政治的、経済的に飛躍できたのは、 なにも、黒船が契機となったばかりではなく、封建制が土台と してあったことが、大きな要因ではないかという見方があります。

その他の、アジア諸国においても、今日の発展の背景において、 やや独裁的と批判を受けるもののリーダーシップを軸に、政治的 安定と集中した経済改革が実行されやすくなるため、権威主義的 体制というのは、政治的、経済的な発展途上の中では、ある程度 功績を認められるものであると考えます。

と、ここまで書いていて
中央集権、権威主義、封建制・・・なんか、似ているような、 似ていないような・・・それとタテ社会とは、どういう意味的 違いがあるのだろうか・・・と考えてしまった。

[01682] Re: 徳川体制

私は、中根千枝さんの本を読んだことありませんが、

徳川体制が、「タテとヨコの交錯」というのが非常に興味 深い見方だなと思いました。

それと、インドといえば、思い浮かぶのカースト制度ですが、 このカーストは、上下が最も明確な制度であると思いますけど、 カーストには、その上下の流動性はなく、生まれた時から定め られてしまいます。 そこいくと、江戸時代は、徳川体制には、 武士の世界に生まれておれば、実力次第では、上下の流動が あったといえるのではないでしょうか・・・・

専門でないので、なんともいえませんが。

[01683] タテ社会についての印象

タテ社会と日本とから連想するのは、新聞等で取りざたされるときの負のイメージです ね。タテ割行政とか、横の連係が弱いことに対する批判とか。

たまたま今会社でマネジメントについて学習している最中だったので、いろいろ現在のタテ社会とマネジメントの関連性について考えてしまいました。

タテ社会とは、「部門化(ヨコ)」と「階層化(タテ)」の「階層化」に関する言葉ですよね。他の投稿でも挙げられているようにカースト制や士農工商のような制度ではタテ社会にはならないでしょう。(上下の繋がりがほとんど無いから。) それに実際現在の日本のタテ社会って言われるのは、部門毎の縦の継りが強すぎることを指しているように感じてます。(セクショナリズムっていわれる問題ですね。) ってすると日本は縦と横の区切りがちゃんと出来ているということだから、部門化と階層化が行われているってことで、組織としては良いと言うことですね。

結局タテ社会に対する批判は、良い組織が出来ているのに、横の継りが悪いということに対してですかね。
これって、実施層、監督層、管理層、経営層と階層化した際の実施層および経営層以外が悪いということですよね。いわゆる連結ピンにあたる層の人達。 結局、実施層の人間がほとんどまともなマネジメントの訓練を受けないまま監督層、管理層になっていってる日本企業(官を含む)の人事制度への批判なんですかね。

というような事を考えてしまいました。

[01684] 契約

[01679] で述べられている、

・集団は契約関係によって維持される。

という意見は注目すべきだと感じました。

個人と個人、個人と社会、社会と社会の関係が“契約”によって成り 立っているような社会は、たしかに「ヨコ社会」という印象がありま すし、これに対し、「タテ社会」は、それらの関係が“現実的な力” 関係によって成り立っているという性格を帯びていると思います。

日本の場合、建て前上は「ヨコ社会」で、現実的には「タテ社会」と 言えるかもしれません。

[01685] Re: 徳川体制

大平です

01679のタテ社会、ヨコ社会の分類は、原著に書いてあることを短く適確に整理 していると思います。(キーワードについては検討の余地あり)

徳川体制について
01680の文章は短いのでよくわかりませんが、ニュアンスが逆だと思います。
江戸時代の制度 → タテ社会  ではなく、
日本はタテ社会 → 江戸時代の中央集権官僚制度
という主張が中根氏のもともとの主張ではないでしょうか。ここでの議論 では原著に忠実に話をすすめる必要はないですが、江戸時代が現代の社会 構造に影響をあたえたという歴史認識が話題になるとしたら、原著の主張は 一応把握しておく必要があるでしょう。

地方ごとにタテの組織(場)が分立しており、それを統合するメカニズムが タテ組織内部にはないので、高次の活動のためには中央集権的組織を作ら ざるをえなかったと原著に書いてあります。タテ社会では、水平的な連合 組織ではなく、中央集権型の政治組織が生まれてしまうという主張です。 地方・周辺だけでは完結した小さなタテ組織しか作れないので、中央という より上位の組織を、地方も必要としたという理解でよいのかなと思って います。

[01686] Re: 契約

大平です

『タテ社会の人間関係』によれば、現実的な力関係で個人間の関係が 成り立つというだけではタテ社会とは言わないはずです。たとえば、 腕力の差で上下関係が出来るのは、実力主義=ヨコ関係の中に括られ るはずです。

現実的な力関係が「場」の中の論理で作られ、それによって上下という 序列が形成されることが「タテ社会」の特徴だそうです。上下関係がある かないかではなく、上下関係が「場」「資格」のいずれによって生じる のかでタテ、ヨコを分類するという発想です。

権威主義、封建制など似たようなところに括られる概念だと思いますが、 見かけは同じようなものであっても、「場」「資格」のいずれで生じる かでちがうという主張です。「タテ」という言葉に引きずられすぎると、 中根氏の主張を理解することができません。「場」「資格」のいずれが 人間関係を形成する主要ファクターかを問題にしているのが『タテ社会の 人間関係』です。

契約という水平的な関係はヨコ社会でしかありえないでしょうが、 上下関係はヨコ社会でもタテ社会でも存在します。上下関係ができた ときに、異なるグループ間の同レベルの者同士が協力することは ヨコ社会ではありうるけれども、タテ社会では縦割りになっているので 協力関係が生まれない、なんてことも書いてあります。たとえば、 タテ社会では企業別労働組合(会社という場の中のもの)、ヨコ社会 では職能別労働組合(資格を同一にする者同士の協力)ができる というような感じです。

[01687] タテ社会について

藤田です。

日本はタテ社会か? この単一社会の理論は、現在でも日本に生きているのだと思います。 タテ社会にもヨコ社会にも長所と短所がありますね。

タテ社会は 日本人は基本的に「場」を単位として閉鎖的な世界をつくるのが得意です。 その「場」の成員は力を結集し一体感を持って集団として強い機能をもつ。 その「場」以外の人を排他的にみる感覚はある意味日本の文化だと思います。 問題の本質より、感情的な行動をしてしまい「真の対話」がありえない。 日本社会には、この人間関係が根底に現在も確かにあると思います。

しかし産業構造の変化と共に求められる労働の形態が変化してきているので 「個人主義」や「契約」の精神が浸透し始めているのではないでしょうか? 例えばIT産業においてゲームを作ったりする場合、 あまりタテの意識はなく個人主義が強いと思います。 終身雇用の崩壊と共に家族的な経営は消えつつあるようにも思います。

[01688] Re: 徳川体制

中根さんは'Japanese Society' と'Tokugawa Japan' という英訳も出しています。 英語の本もチェックしてみました。

Whatever its psychological or emotional effects, this penetrating power of the central administration, the roots of which were already established in the Tokugawa period, was an essential basis for modernization which has taken place since the Meiji period.The bureaucratic system of this central administration has an organizational pattern in common with the Japanese native social structure-the vertical organization.....by 'Japanese Society'(p103)

The Tokugawa period provided the foundation of present-day Japan in the sense that many elements now considered characteristic of Japanese society originated then....by' Tokugawa Japan '(p.213)


と書いてあります。 中根が注目していることは 明治じゃなくて、江戸時代の制度が基本となって
→ タテ社会といった日本独特の(?)社会構造を決定づけている
と私は理解しました。

間違いでしょうか?

[01689] Re: 徳川体制

大平です

ここでの議論は、社会学に関する専門的な議論をするわけではないことを 一応確認しといた上で徳川体制についてのコメントです。

01688にある英文の引用を読んでも、やはり
日本はタテ社会 → 中央集権体制
と書いてあるとしか見えません。江戸時代にすでに確立していた中央集権 体制が明治以降の近代化の基礎になったとは言っています。
中央集権体制 → 明治以降の急速な近代化
ですね。 (ちなみにタテ社会化=近代化ではないですね)

日本独特のタテ社会の特徴が制度化された時期として江戸時代を見るのが中根 氏の見方です。また、家制度が確立したのも江戸時代だと言っています。

ここまで原著の解釈、ここから私見・私の歴史観

江戸時代以前、とくに戦国時代の日本は実力本位の時代で、ヨコ社会の特徴を 多分に備えていたはずです。江戸時代に徳川支配の都合で作られた制度が タテ社会的要素を確立したという仮説の方が私には理解しやすいです。
中央集権体制 → タテ社会
の方が正しいのではないかということです。(原著に対する反論ですね)

ただ、なんとなく気持ちの中にあった考え方を社会制度として整備したのが江戸 時代だといわれると、そうなのかもしれないなあ、とも感じます。

[01690] Re: 考えてみました

タテ社会
歴史が古く、クーデターなどが起こらず、国家基盤が安定している国!?
ヨコ社会
歴史が浅いか、クーデターなどによって権力者が頻繁に交代する国!?

など、考えてみました。

[01691] 儒教的秩序の中は居心地良し

利休の弟子、宗洋です。

小員も[01673]の方同様、日本やアジア諸国における「タテ社会」の背景は、歴史的 に「儒教」によるところが大きいように直感した次第です。 日本においては、徳川幕府が孔子論語を積極的に推奨し、また、維新後の明治政府に おいても、教育に取り入れていたと記憶しております。 しかし、中国や朝鮮半島の「儒教」と、江戸時代以降日本に根付いた「儒教」とは、 些か質感が違ってはいないだろうか。 こと日本においては、儒教的な、きっちりとしたタテ・ヨコ・ヒエラルキー形態の中 に埋没すると、何かどこか安心できるという特性が、われわれニッポン人にはあるの ではなかろうか。 「君々臣々父々子々」、忠臣蔵の「忠」、親孝行の「孝」・・。

インドのカースト制度は、ヒンドゥー教の教理に源泉があると聞いたが、仏教、ヒン ドゥー教の輪廻転生も、関係があるや否や・・。

[01692] タテとヨコの交錯

どうやら私は間違っていたようです。

「なんとなく気持ちの中にあった考え方を社会制度として整備したのが江戸時代」 だったんですね。

中根氏によるとタテの社会構造は「変わらないもの」であって、徳川からいきなり登 場してきたものではないですしね。 ご指摘に感謝いたします。

さて、中根さんのいっていた徳川体制の「タテ・ヨコの交錯」はこういうことなんだ と今のところ思っています↓↓↓

家康が思想的ブレーンとした儒学者は、林羅山(1583〜1657)という人で、彼は「上 下の差別を先天的な秩序(=資格)と考える個別主義者」であった。 その思想が徳川幕府の身分制による秩序(=カースト)という理念によく適合したか ら、林家は徳川時代を通じて幕府の儒家という地位を与えられ、林羅山派の朱子学が 幕府の身分制を裏付けする道徳原理となった。 (参考『タテ社会終焉』 八巻なおみ:)

すなわち、上下の差別を先天的な秩序と考える朱子学(儒学)はタテとヨコが盛り込 まれて徳川体制にとって非常に便利だった。

* 今のマネジメントトレーニングって、タテとヨコのバランスがいい組織を目標として いるのでしょうか? 具体的にどういうことなんだろうか?

[01693] フラット化

藤田です。

タテ社会の集団の構造は底辺のない三角関係だと中根氏はいってますが、

現在のヒエラルキーは中間管理職をなくす方向でフラット化していると思います。 それにより何が起こるかといえば、個人主義となる事ではないでしょうか。

ヒエラルキーの場合は責任の所在がわりと不明確でした。 しかし、フラット化すると風通しが良い分、直接自分に責任がかかります。

有能な「個人主義」の人材を沢山集めたら会社として良いかどうかは不明です。 個と個がぶつかり合います。 力学的マネージメント能力がある人材が必要です。 この人材がいないと組織が成り立たないという観点からみると こちらの方が重要だと思います。 マネージメント能力のある人材は「個人主義」ではないですよね。

日本がこれだけの経済大国になったのは 結果的にみてタテ社会の功績だともいえる。

何かの本で読んだのですが アメリカだって以前は「日本のやり方」を取り入れていく必要がある という経済学者がかなりいて「Zの理論」という本にもなったそうだ。

そう考えると、 タテ社会とヨコ社会良いところを生かして ミックスした複合的社会が望ましいのではないでしょうか。 ただ日本人は「個人主義」に慣れていない、素質がないようにも感じます。

[01694] 昔だったからでしょうか?

『タテ社会の人間関係』を読んで「うーん?そうですか」と思った箇所

●「ヨソ者」意識が生む日本人の非社交性
「たとえば、外国滞在の経験をもつものなら誰でも思い起こすことができよう。日本 人同士が偶然外国で居合わせたときに起こる「冷たさ」を通り越した「いがみ合い」 に似たあの「敵意」に満ちたような視線のやりとりは、まったくお互いにやりきれな いことだ。(p.50)

●あらゆる分野に田舎っぺ傾向
自分たちの世界以外のことをあまり知らない、あるいは他の世界の存在をあまり知ら ず、それなれていない、感覚としては「田舎っぺ」傾向。(p.53)

●奇異にうつる日本の序列意識
ロンドン大で講師をしていたときの話。 イギリス人の社会人類学者が日本人のxxx教授に中根氏を知っているかと聞いたら、 「よく知っています・・・・しかし彼女は私の後輩なんです!」といったのでイギリ ス人サークルに笑われたという話。(p.89)

その他、アメリカ大学に滞在中、中国人のグループは中根氏が通りかかると、壁を作 らないようにすぐ英語に切り換えて、日本人とは対照的だった。(p.48)

などなど、「うーん、そうだったんですか?」と思ってしまった・・。

[01695] Re: フラット化

藤田さんのおっしゃることよくわかるような気がします。勉強になりました。

ところで、中根さんがいっている社会は2つです。

タテの階層    |||  ( ↓ )

            ― ヨコの階層     ―    ( → )             ―

しかし集団になると

タテ集団       a
           /\
          b   c

ヨコ集団      a
           △      
          b  c

といっています。 そうでしょうか?

でもこの図おかしくないですか?ヨコの集団の図ってヨコだけではなくタテもヨコも つながりがあって。 それに上の階層図とマッチしない。

最も社会における人間関係のつながりをそんなに単純化してよいものでしょうか?

[01696] Re: 昔だったからでしょうか?

こんばんわ。

私は英語が苦手なので、海外旅行に出かけたことがありません。 来年、娘がハワイで結婚式をあげるのですが、中根さんみたいな苦い思いをするのな ら、いっそ旅行を取りやめにしようかと思ったりします。

このMLのメンバーはなんていいますか、コスモポリタンで海外旅行や留学されている ひとが沢山いらっしゃると聞きました。

中根さんの経験談を皆様はどう考えますか? ご意見お聞かせください。

海外で「恥ずかしい思い」をしたくないのでご意見いただければ幸いです。

[01697] Re: フラット化

フラット化の手法として、企業ではプロダクトマネージャー制や、少し意味がずれると思いますが、プロジェクトチーム、タスクフォース制などを導入し(はじめ)ていると思います。 また、複雑化した階層の簡略化もしてますので、確かにフラット化に進んでいると思います。

私の感覚なので、原典はないのですが、以前の日本のタテ社会が上手く機能した理由として、次のような事があると思います。
1)以前の日本人は仲間意識、帰属意識が強く、このため、結果としてヨコの関係が水面下で機能していた。
2)村八分くらいからの日本の習慣(?)の連体責任制が、結果としてVE活動におけるチーム デザインのような機能を果たしていた。

この2)の連体責任というシステムも仲間意識を強める原因だったと思います。 あと日本のタテ社会が築かれた原因として、組織でいう統制範囲の原則といわれる、一人の人間が管理できる人数には限界があると言われるものがキッチリ守られていたのだと思います。 この原則が社会組織から、村、そして家の中まで徹底して適用されていたのが日本ではないでしょうか。 逆にこの統制範囲の原則以上に多くの下っ端を持つような構造の社会では、数の力で縦の繋がりよりも横の繋がりが強くなるのでは? このような社会では、デモが多く発生したり、個人の主張(特に権力者に対して)をハッキリしたりする文化に育つのでは?

現在の日本の構造に対する個人的な見解としましては、タテ社会にヨコの仕組を導入しようとしている変遷期のように思います。

[01698] 縦社会、横社会

くろだです

勝手な解釈ですが、私は縦社会と横社会をこうとらえています。

縦社会:一部の人間(組織)が自分の権利と利益を最優先させるように
     作った階層社会。
     主に、下階層の人間はシステム的に不利な立場におかれるので
     上の階層に行くのがむずかしい。
     上の階層にいる人間は、利権を守をまもる為の行動する傾向に
     ある。
     たとえば昔の日本の会社で言えば、年功序列と言う制度があった。
     能力が下でも、年齢が上ならば上司の立場を保障されていた。
     最近はそれが崩れて来ているので、秩序がまもれなくなってきている
     事が問題になってきている。

横社会:環境の近い人間や接点の多い人間が自然発生的に作る人間関係社会。

     横社会だからといって平等ととられやすいが、決してそんなことは無い。
     自然発生的に上下関係(序列)ができるのが特徴。
     ここで出来る上下関係には目的が無い為、必要以上の強制力をもつ
     上下関係が成り立つ場合がある。

           ある優位的な特性によって出来る人間関係なので、移り変わりが早い
     社会である。

すごく偏った意見ですいません。(^^;        
     

[01699] Re: 01695 さんへ

藤田です

多分、集団を表現するのに最低の人数が3人で(これでもグループ) それがP117頁の第1図で示されていて、かえって分かりにくくなっていると思い ます。 これってパラドックス? 【1695】さんのように上手に図がかけなくてすみませんが

Yの図はa⇔b⇔c⇔aの関係ですべての成員が繋がっている。 3人だと三角形になるからまぎらわしいですね。

Xの図はa→b、a→cトップダウンの場合
     b→a、c→aボトムアップの場合
     aを頂点として繋がっている。

その下の第2図になるとはっきりしてきませんか?

次のhという人が入ってくる入り方を 問題にしていると思いますよ。

今現在の社会では中根氏が書かれた時代より 変化していて(していない部分もある) その一つに組織のフラット化がある。 フラット化は 下図のように、第2図で示しているb、cが いなくなったという意味です。  下図の矢印はありませんがタテにa→b、a→c、a→d、a→eです。 新しいhが入って来たらh→aです。 (これはトップダウンの場合で逆方向はボトムアップ)

        a

    b  c  d  e    

   

[01700] フラット化

送信されてなかったのようなので再送します。 藤田さん、

I タテ集団 (a⇔b a⇔c) 
          a
          ∧
        b c

Y ヨコ集団  (a⇔b、b⇔c、a⇔c)  
           a 
           △
          b  c

「三角形になるから紛らわしい」というのはおっしゃるとおりです。 思うに上記の図は、one-to-oneの個人の関係だったらいいのですが、集団となるとよ く説明 しているように思えません。

中根が言いたかったのおっしゃるとおり
1。hの人の入り方とそれと2.タテ社会はピラミッド型だということですね、たぶ ん。

藤田さんフラット化理論を図にするとどうなるのでしょう?
         a
       ///\\\\
      b c  d e ・ h

Xの図二人数を増やしただけになってしまいました。

初めて聞いた理論なのでよろしければもう少しご紹介ください。

[01701] 組織のドライ化

[1697]の方が 現在の日本の構造に対する個人的な見解としましては、タテ社会にヨコの仕組を導入 しようとしている変遷期という見方に、同感です。

そして私たちはその変遷期のウィットネスなんだろうと思います。この時期に日本人 のアイデンティティーを探っていくのは大切なんではないかと思います。 自分がなんだかわからないことが多いですから。

結果にいろんな見方ができますが、 社会の景気悪化などにより、リストラを積極的に推し進められ、終身雇用のような組 織安定性=定着=ウェットが不可能となり、あちこち飛び歩く渡り鳥のような生活を しなければならなければならない日本人が増えている。この状況に適応するために、 個々人の性格が自然とドライ化する傾向にあるのではないかという既存日本人論の定 説を覆すような見方をする人もいます。

[01702] 司会:用語の統一、テキストについて

司会です

(1) 用語

ここでの議論では中根氏の原著にしたがってタテ、ヨコという言葉をつかうこと にしましょう。以下のような言葉づかいでいいのではないでしょうか。

タテ関係:上司・部下関係など上下のつながり(一方が他方に従属)
ヨコ関係:対等な人間関係

タテ社会:基本的にタテ関係のみしかない社会
ヨコ社会:タテ関係に加えてヨコ関係もある社会

ログでは中根氏の原著の文章を比較的忠実に再現している部分は色を別にして あります。メンバーの意見と中根氏の原意とを区別するための工夫なので、 参考にしてください。

(2) 検討対象になっている中根氏の仮説

日本社会では「場」を通じて人間関係を形成するために、タテ関係しか生ま れない。「資格」を通じて結びつくヨコ関係は生まれない。結果として日本は タテ社会である。

(3) テキスト

テキストを読んでいない人、異なる版のテキストを読んでいる人もいる可能性 を考えて投稿文を作るようにお願いします。引用をする場合、ページ数を書くの は大事なことですが、そのページを見なければ投稿文の意味がわからないような 書き方はしないようお願いします。

[01703] フラット化とヨコ関係

全世界どこでも(だと思います)、長い伝統をもつ組織の硬直化やセクショナリ ズムが話題になります。ヨコのつながりがないとか、あっても形骸化してしまう。 権限が複雑に入り組むと、どうしてもセクショナリズム・自分の属する部門の 権限を守ろうとする考えが出てくるのではないでしょうか。

そこで、タテかヨコかが問題というよりも、複雑になりすぎることの方が問題と いう意見を出してみます。ヨコの組織を仮につくっても、問題の所在が見えにく いので、結局は自分の属する部門の権益確保や手間をはぶく行動になってしまう のではないでしょうか。ヨコ組織の乱立はかえって組織全体の効率を悪くする ことも考えられます。

このような問題意識の下で、フラット化という形で組織構造を簡素化し、権限に ついても委譲していく流れが出てきているんだと思います。フラット化というのは、 タテ関係の階層構造の複雑さを簡明にすることであって、ヨコ関係を作り出すこと ではないと思っています。ちがいますか? たぶんフラット化の話はタテ社会、 ヨコ社会の議論とはすぐには結びつかないと思います。

一方、フラット化が個人主義化に結びつくという藤田さんの意見は正しいと思い ます。個人主義=ヨコ社会ですかね? なんとなく、個人主義というのはタテで もヨコでもなく、みんながバラバラで結びつかない社会のように思えます。

* 「フラット化=組織構造の簡素化+権限をできるだけ下へ委譲」という意味で つかっています。

[01704] 個人主義の源泉

藤田です。

個人主義の素質がなさそうなのはどうしてか考えてみました。 個は「家族」からつくられるものですよね・・・・。 中根氏も「場」を強調する日本独自の集団認識の あり方は「家」の概念にあるといっている。(31頁以降参照) それで「個」がどの様に確立されるか 家長権から家父長制度、母性、父性というキーワードをもとに 歴史的なところからひろってみました。(簡略化した箇所もある) 以下、私の言葉はコメント程度で『』で括りました。

家父長制度と家族の出現
「父性の復権」林 道義 中公新書によると これまで思想界を圧倒的に支配してきたのは 「母権性から父権性へ」というみかたであった。 19世紀中ごろのモルガンの「古代社会」と それに依拠したエンゲルスの「家族、私有財産及び国家の起源」により 「乱婚制から母権性へ、母権性から父権性へ」という歴史認識だった。 歴史をさかのぼればさかのぼるほど父性は弱いと考えがちだが、 山極寿一氏の家族の起源「父性の登場」東京大学出版会の研究により 類人猿にも人間の父性にあたるものの存在を発見したそうだ。
『また進化のストーリーについて興味のある方は 家族の起源「父性の登場」176頁以降を参照してみてください。 全部読んでないけど山極氏の研究は面白いと思います。』
初期人類は二足歩行することによって人類となった。 脳が大きくなった人類は成熟した子供では 産道が通れないので子供の脳が小さいうちに(未熟なうちに) 生む必要があった。人間の幼児はサルのように自分の力で 母親の身体にしがみつく事が出来ないので、人間の母親は常に子供を 抱いていなければならない。その結果母親は行動が制限され単独生活者として は弱い存在となった。初期人類のオスはこの弱い存在の母子を見捨てないで 母とカップルを形成して父となり母子の面倒をみた。 こうして家族が出現した。父の登場と家族の形成は同時であった。

日本の家父長制 (「家族の復権」林 道義 中公新書より)
日本の母系、父系はアマテラスとスサノヲの 「誓ひ」に書かれている相克がみられる。 とても単純化していうと西南地方は母権制が優勢 (双系制が複雑に入り混じっていたが)で 東北地方は顕著な父権が優勢だった。 その東北地方の伝統が中世の武士社会の 勃興とともに全国に広がって、 江戸時代から明治にかけて一段と強化されて 明治民法によって家族における家父長の 権力が確立された。

母性原理と父性原理(家族関係を考える 河合隼雄  講談社現代新書より)
簡単にいうと母性原理は「包含する」ことをおもな機能としている。 すべてを包み込み、すべてのものが絶対的な平等性をもつ。
『「和」を好む』
父性原理は母子の一体性を破ったように「切断する」機能に特性をもつ。
『競争や闘争を好む』
この二つの原理は共に大切なものであり人間の成長のためには必要なもの。 ヨーロッパの文明は父性原理を極度におしすすめられた特異な文化だと考えられる。 西洋人の子供は強い父性の力によって母親から分離し、 はっきりと区別された存在としての「個」の自覚をもっている。 それに対して日本は母子の一体感はどこまでも温存され、 他人に対して個と個の関係をもつ事はなく自分と他人は 同じ母の子として「身内」として一体感をもちうるか否かが大切になる。 日本は早くから西洋文明を積極的に取り入れて、 他の諸国に比べて「西洋化」が徹底しているようにおもわれがちだけど、 このような基本的な点に関してまだ西洋化されていない現状がある。

[01706] Re:01700 さんと 01703 さんへ

01703さんへ
底辺のない三角形Xの(タテ集団)頂点aは管理職でb、cは平社員です。 この場合フラット化と同じ形ですね。

中根氏がおっしゃる通り新しい人hが入るとき、 ヨコ社会では入団の条件は全員に影響する。 それは集団成員のルールによって明確に規定されている。 タテ社会の入団の条件は成員の中の一人の依頼により入ることが出来る。 このような違いがあるみたいですね。

01703さんへ
タテ社会とヨコ社会の二元論で集団を考えた時 タテ社会が群れ的な集団であるのに対してヨコ社会は 個が確立しあった集団という感じがします。

日本的雇用慣行といえば終身雇用・年功序列・企業別労働組合 ですよね。 これは日本の文化ともいえるタテ社会です。 終身雇用や年功序列は今や日本の雇用慣行とは言い難い状況になってきている。 それを欧米にある職種別労働組合(ヨコ社会)というのが できたら会社のありかたは変わると思います。 組織のストラクチャは簡単だと思いますが おっしゃるように現実、人間関係は複雑だと思います。

[01707] LLC 制度

マリアンネ・イトウです。

<中根の『タテ社会の人間関係』が、今でも多くの人に読み継がれている理由>

1)江戸〜明治〜昭和高度成長期に受け継がれた日本の社会風土が「タテ社会」の ベースとなっていたということへの共感・ノスタルジー

2)ドルショックによって、また円高ドル安によって、海外旅行人口が増加したこと や、低賃金労働の担い手として、外国人労働者が観光ビザでどんどん入国してきたこ となどで、鎖国→島国根性のニッポン→開かれたニッポンと、変わりつつある現代日 本社会と、同著初版1967当時との差異のおもしろさ

3)「タテ社会」の最たる大企業構造への問い→これでは立ち行かん!っちゅうこ と。

とくに3)については、つい先日、経済産業省が日本でもLLC制度(会社組織だが組 合組織のように決裁権が各自にあり、プロジェクトなどが迅速に進められる企業形 態)をすすめていこうではないか!と世の中に広告しました 。 がんばれ!ニッポン

<日本はタテ社会なのか>

Yes. いまもってやはり「タテ社会」だと思います。

<日本だけがタテ社会なのか>

No. イスラム諸国、ヒンドゥー諸国、儒教の国韓国など、そして独裁政権の国なん かは確固たる「タテ社会」なのではないでしょうか。欧米に関しては両側面があるよ うに思います。

<なぜタテ社会になったのか >

上層部が統制しやすいからでしょうか。

<タテ社会であることが何か問題か(悪いのか)>

景気回復には、企業構造の変革が必要。今のママではだめだと思います。 前述のLLC(Limited Liability Company)制度は魅力的です。

[01708] フラット化とヨコ関係

01703です

フラット化とヨコ社会との関係にまだ違和感があります。 まとまりないですが、考えていることを並べてみます。

ヨコ社会では個が確立しているという意見は賛成しますが、フラット化 の結果すすむ個人主義化がヨコ関係を作り出すかどうかは別問題ですよね。

個人主義には対等な人間関係をつくる場合と、人間関係を拒絶する 孤立した生き方を作り出す場合とがあると思います。

フラット化はタテの構造を単純にすることです。フラット化と同時に ヨコのつながりを意識的に作り出さなければ、会社の中がヨコ社会に なっていくとは思えません。

社内掲示板をつかった情報共有を促すような工夫のほうがヨコ関係を 作り出すものではないでしょうか。

契約による結びつきのことをヨコ関係と言うのなら、個人主義化と ヨコ社会化は同じ意味なのかもしれません。

[01709] 資格と場

大平です

どのような社会でも、組織的に仕事をしようと思ったら、何らかの帰属意識 が必要なんだと思います。それが日本では「場」、他国では「資格」なのか はよくはわかりませんが、個人間を結ぶ何かが必要な点では同じです。

個人主義が話題になっていますが、たしかに
(1) 対等な人間関係の基礎となる個人主義
(2) 孤立することを選び、社会生活を放棄する個人主義
という2つの意味があるように思います。おそらく『タテ社会の人間関係』 では(1)を取り上げることはあっても、(2)のような個人行動は考察の対象に なっていないと思います。個人間を結ぶ「何か」を否定するのが(2)だからです。 中根氏の本では一貫して個人間を結ぶ「何か」の構造を問題にしています。

会社、組織内のフラット化が(2)の意味での個人主義に直結するとも思えま せんが、(1)になったからといって、ヨコ関係ができるとも言えません。 フラット化の議論がタテ社会、ヨコ社会のちがいにあたえる影響はそれほど 大きくないと思います。

(1)の意味での個人主義が「資格」を共通にする者同士が結びつくヨコ社会 を支えるという意見には賛成します。しかし、『タテ社会の人間関係』を 手がかりにタテ、ヨコを論ずるのならば、まず議論すべきは、(1)の意味での 個人主義が成立するかどうかではなく、資格、場のいずれを重視するかのちがい が何によって生まれたかではないかと思います。

[01710] Re: 個人主義の源泉

Niko・まこ・スーちゃんです。

藤田さんの個人主義の源泉についてですが、 家族→個 ではなく、 個→家族 ではないでしょうか。 でも、日本において、と限定されると、家族が主体でそのあとに個がある、というよ うな意味なのかな。それならなんとなく「そうかも」と思います。

というのは、古代ギリシャのポリス国家社会が頭に思い浮かんだからです。 どういうことかというと、まず個人が結婚し「家族」を構成します。その子供がやが て結婚し別の家族を形成します。また、「家族」という単位のほかに、「支配者」と 「被支配者」によってもひとつの「小共同体」が形成されるケースもあります。これ ら「家族」や「小共同体」同士は「村」を形成します。そしてこの「村」が寄り合っ て「ポリス(小都市国家とでもいいますか)」を形成します。 これらの構築プロセスはごくごく自然な営みによるものですが、この共同体を機能さ せるためには必然的にモラルが必要になってくるので、共同体の一番上にある「ポリ ス」は《善く生活するため》という「目的」にしたがってモラル機能を完備させると いうもの。

個々が何かの「目的」に向かって「契約」関係をつくっていく。これって「ヨコ社 会」ですか? そしてその社会が「ヨコ社会」だとしたら、必ずしも「ドライ」で「砂漠」的な人間 関係なんでしょうか?

古代ギリシャ社会では、個→国家、最高の位置にある国家(政治)は、その終極目的 に、「善く生きるため」という倫理観を持ち備えていたようです。

キリスト教が幅を利かせる以前の西洋社会―ギリシャの都市国家で、人々はどのよう な「個」を形成していったのでしょうね。

[01711] 個人主義

くろだです。

個人主義に思うことをひとこと。

アメリカは個人主義であると言われていますが、個人も社会も とても大事にしている印象があります。 (ボランティアも盛んですしね。) 「自他の権利を守る個人主義」と言う感じです。

では日本ではどうかと言うと、個人主義と言うより利己主義な 方、組織を多く目にします。 「自分だけが大事な個人主義」かなと思います。

[01712] 韓国

田貫です

タテ社会を基本的にタテ関係のみしかない社会、ヨコ社会をタテ関係に 加えてヨコ関係もある社会とするのですよね。

イスラム諸国、ヒンドゥー諸国、儒教の国韓国は上下関係の厳しさだけ だったらタテ社会的ですが、ヨコ関係がないかどうかまではわたしは わかりません。

タテかヨコかわかりませんが、韓国人は「場」への帰属を重視する という印象があります。むかしアメリカに住んでいたとき、 何かというと自分がどこの会社から派遣されているかを言う 友人がいたのでその印象があります。ああ日本人にそっくりだな と思いました。

韓国人は血縁関係を重視することでも有名です。『タテ社会』では 血縁関係は「資格」なんですよね。話が混乱します。日本とか 韓国とかの国単位ではなく、企業組織の中だけの話だったら単純 でいいのにと思います。企業の中だけの話なら韓国も「場」を重視する タテ社会ではないでしょうか。

[01713] 8世紀イスラムの人々は都会派

Miki・らん・スーちゃんです。

日本以外のことを考えてみました。

8世紀頃のイスラム社会は、ヨーロッパや中国に先駆けて、「都市的な生き方=アー バンライフ」をしていたそうです。豊かな生活を享受し、知識を磨き、都会的なマ ナーを身につけて、こういった生活を楽しんでいたらしいです。

灌漑農業と交易で繁栄して、現物で徴収された租税を商人に売り渡して現金収入を 得、その収入を基礎に、精密な予算組みをして、官僚や軍人への給料が全て現金で支 払われ、貨幣経済と官僚組織が整備され、市場は世界各地からの商品で溢れ…。

イスラム文明(宗教をこえてひとつの文明圏を形成していますから)の根本には、 個々人間で行われる商取引の「契約」があります。 当時のイスラム社会では、個人の責任において誰かと信用取引をし、商売を成り立た せ、相互利益を得ていたという背景が、「個」を確立させ、「ヨコ社会」を形成する 素因になっていたのではないかと思います。 そしてこの「ヨコ社会」は、「イスラム教」という強靭な倫理感に支えられ、信仰に よる連帯感によって成り立っていたのではないでしょうか。

[01714] 中国はヨコ社会?

ミンミンです。

中国は「ヨコ社会」と聞いたことがあります。 文化大革命前、皇帝がいた時代でも、地方社会はヨコ関係でできていたとか。 なにかの“トンデモ本”に、たしかこんな話が載っていました。

 3人の中国人が寄れば、すぐチャイナタウンをつくる。
 3人のアメリカ人が寄れば、教会をつくる。
 3人の日本人が寄れば、会社をつくる。

チャイナタウンをすぐにつくる中国人は、個々がバラバラだとか。 「アンタ、ラーメン屋、ワタシ靴屋、オマエ何ヤルカ?」ってぐあい。 すぐ株式会社をつくる日本人は、社長と専務と常務に部長・・肩書つくって名刺を刷 る。

中国こそ、孔子を生んだ儒教発祥の地ですが、その後孫文が唱えた「三民主義」など の影響によって、国民性が変わってきたのでしょうか。 それとも、孔子以前のなにかが、商売上手でヨコ社会の達人=中国人を形成している のでしょうか。ナンダロウ?

[01715] タテ社会とヨコ社会

中国は横社会だと思います。
それでいて横社会の中でタテの関係もはっきりしていて。 「お上なんか信じられん、自分達のことは自分達でやる」といった土壌の所ですか ら、歴史的にも弱者互助の精神に長けていて、横の連帯の中でまたタテの社会を作っ ていくというような感じです。面白いのは、乞食間での互助組織もあって、その長は 世襲していたというような話しもあります。中国ではタテ社会からの保護を求めるた めの、ヨコ社会といった感じでしょうか。

[01716] 日本のタテ社会を楽しむ

中根千枝氏の『タテ社会の人間関係ー単一社会の理論』を読む前に身近な社会に目を向けてみました。ちょっと無責 任な主張ですが・・。
「日本はタテ社会か」「それは問題か」・・日本はタテ社会だと思います。 以下はある雑誌のちょっと面白い投稿のご紹介です。

多くの会社で日々ありそうな、上司と部下の会話
課長「いや、部長のおっしゃる通り!」
部長「おお、そうか。おまえもそう思うか」
課長「(もみ手で)私が部長の立場でも同じ事を考えると思いますよ」
部長「ふむ。それじゃ今回は、こっちの取引にしてみようかなぁ」

この会話をどのように解釈するか。
“課長は事なかれ主義者”
“課長はいまが働き盛り”
著者はの解釈例を「悪玉フォロワーシップ」の解釈例を「善玉フォロワーシップ」として、を「志の高いゴマ すり」と表現している。「これは一つのスキルである」との事。

理想的フォロワーの「模範的」フォロワーは、独自のクリティカル・シンキングができ、独立心旺盛、常に自分で考 え、行動する社員。時には上司に対して建設的な批評も辞さず、革新的で創造的な人物だとする。

日本の身近なタテ社会を生き抜く面白い投稿だと思うので「それは問題ではない」と思ってしまうのです。

[01717] 行政がヨコ連携とってくれました

やぐちです。

「タテ社会」と聞いて、日本の行政のことを思い浮かべる方は多いかと思います。 「タテ割れ行政」ですね。 ところが、私どもの住む地域の区役所で、管轄部局間の垣根を越えて、既存の縛りを 破って、斬新な措置をしてくれたことがあります。

子どもが学童保育室に通っている頃の話です。 学童保育とは、20数年前に、共働き夫婦や一人親の鍵っ子たちを、孤独な放課後か ら救おうということで、親たちが立ちあがり、草の根運動的な活動を通して作り上げ たシステムです。その後、地方自治体などで公的に支援してくれるところも増えてき て、現在に至っています。 私どもの地域では、市民活動の中心的組織、住区センター管理運営員会が区の指導の もとに、この学童保育を運営しています。 年々学童保育への入室希望者は増え続けているにもかかわらず、受け入れ数が足り ず、毎年たくさんの待機児童を恒常的に出しているけれども、住区センターをたくさ んつくるわけにもいかないので、解決の糸口はなかなか探れない状況でした。 ところが反対に、公立の小学校は、児童数の減少に伴い、空き教室が増えてきていま したので、これをなんとか利用できないだろうかと、私ども親の組織、学童保育室父 母連絡協議会は、区に願い出ました。

しかし、公立小学校は、文部科学省の縛りがあり、区では教育委員会を中心とした学 校運営の専門部署の管轄ですし、学童保育室は、区の地域振興部内の住区センターを 統括する部署の管轄で、さらに、申請する時は未就学児ですから、厚生省の縛りがあ る、福祉事務所(公立の保育所の申請窓口)になるというややこしさがありました。 つまり「タテ割れ行政」なので、あちこちに働きかけて、理解をあおいでいく地道な 努力の必要がありました。

ほとんど諦めかけていた時、当時の担当者の方が「ワーキング・グループをつくっ て、検討してみることにしました。」と、ひとこと言ってくれたときには本当に嬉し かったです。地域振興部から数名、教育委員会から数名、福祉事務所からも人を集め て、まさにヨコ組織を、この学童保育室増設のために、つくってくれたのです。 そして1年間いろいろと多方面の問題をクリアして、小学校の空き教室に住区セン ター学童保育室の分室という位置付けで、新しい学童保育室が完成しました。管轄は 地域振興部ですが、付帯設備は学校と共有します。

日本の行政が、こういう試みを思いきってもっといろいろな場面でやっていただけた らといいと思います。 少しテーマから外れてしまい申し訳ありません。

[01718] ピューリタニズム

よーこです。

中根の「ヨコ社会」の定義として、職業・血縁・身分など「資格」による集団構成を 重視するということですが、日本はそれではどうかと考えても、すぐに答えが見つか らなかったので、欧米諸国、特にアメリカ合衆国を考えて見ました。合衆国は「ヨコ 社会」と言えるように思います。 合衆国が「資格」重視の「ヨコ社会」だ、と仮定して、それが何によって生まれたか を考えて見ました。

西洋文化の特徴を考えると、やはり西洋的概念の根本に位置するものとして「キリス ト教」による影響を考えざるを得ません。 キリスト教と言っても多宗派ありますから、ここでは合衆国に一番影響を与えたであ ろう「ピューリタニズム」について考えて見ます。

わたしは、ピューリタンの思考の特徴を、大好きな詩人エミリー・ディキンソンで考 えて見ました。 ディキンソンは
“Mine by the right of the white election ! (白の選択によって わたしのも の)”
という詩で有名な、マサチューセツ州アマーストの19世紀後半の詩人です。 敬虔なクリスチャンである彼女ですが、妻子ある牧師に恋をしてしまいます。心の中 にこの気持ちを封印し、生別を決意してから、彼女は白い服ばかり着て、外界と自分 を遮断した生活を送ります。

ディキンソンがピューリタンの代表的な人というには、少し違和感を感じる人もいる かもしれません。なぜかといえば、彼女は失恋から隠遁生活を開始しますから、 ピューリタン・長老派教会などプロテスタント系の人々が必ず行う日曜礼拝に行かな いわけです。これはほんとうは許されないことです。病気でもないのに(ある意味病 気ですが)。

しかし、ディキンソンのこの内省的性向は、ピューリタニズムの特徴と言えます。 「ピューリタンたちは、良心の保持に誠実なあまり、しばしば過度の内省に陥りがち な傾向を持つ」と、明治学院大学のディキンソン研究者、新倉俊一先生から講義で 伺ったことがあります。

ピューリタンは「神」と「自己の魂」との1対1の対話を、心の中での「祈り」に よって行います。「神」と「自分」との契約関係の中で、神にとっての自分というこ とを常に意識して行動します。

先に触れました「資格」の中に、この「信仰」とか「宗教」というものを属させると するならば、ピューリタニズムあるいはプロテスタンティズム精神によって培われた 潜在的な特徴が、合衆国の「ヨコ社会」を形成するに至った理由とすることはできな いでしょうか。

[01719] 日本の家元制度

利休三千家門下 宗洋です。

小員が修養の道として門を叩いた茶の湯の世界は、家元制度による「タテ社会」だと 言えるでしょう。 日本は古来より、道を極め道を説く高尚な人物のもとに、学ぶ側の者が弟子入りする というかたちの師弟関係で、学問や武術などを学ぶ風習がありました。

茶道においてもこれに類する形式で、家元を筆頭にした宗匠と弟子の関係による三角 錐型の「タテ構造」をとっている。社中一門はそれぞれ自分の宗匠の下で茶に精進し てまいります。このような師弟関係は、弟子から宗匠に対して、茶の道に関すること で物申すことなどは許されない、そんなことはあり得ない世界ですから、一方的な上 →下の関係と言えます。この社中一門の組織はまさに「場」を重んじるものであると 言えます。

が、これは至極当然のことです。禅の思想からも、学ぶは己であり、師の元での修行 の先に、自身が自ずから道を見出すこと以外に悟りの境地を得ることはできません。

日本が「場」を重要視した「タテ社会」であるという中根氏の説は、納得できます。 家元制度など「タテ社会」に支えられた、学問や文化、武道・武術教育によるところ が大きいと感じる次第です。

いわゆる「常識がない」などという言い方をして、人を評価する風習は、日本独自の 慣例や風習を「常識」としたマナーだという考え方が普及しているからでしょう。 「礼」や「しきたり」を会得するのが「常識人」としての当然。これらの心得がない 者は、日本人として恥ずかしい「礼節を欠いた非常識な人間」という見られ方をする 慣習。 これは、良きにつけ悪しきにつけ、日本人をある意味「タテ社会」にさせる素因子だ と言えるかもしれません。 これはもしかしたら「家元制度」に因るものと言えなくもありません。

[01720] 利潤追求か否か

大平です

行政がヨコ組織を作って対応してくれた実例は興味深いですね。でも、そもそも なぜタテワリだったのでしょう。私はタテ社会、ヨコ社会という説明よりも、 利潤を追求しない組織の特徴で、世界中どこでも同じだと考えてます。

組織全体がカネもうけをしないのなら、そこで働く人への報酬の仕組みも能力主義 ではなくなります。カネもうけをしない組織ではたらく人が考えることは、いかに カネをかせぐかではなく、自分の手間をいかに省くかです。タテ組織をつくり、自分 の権限を守り、自分の権限の範囲だけで仕事をするのが、もっとも効率的です。役人 になる人の性格の問題ではなく、組織の目的に基づくものです。英語でも「官僚的」 という言葉はユーザーの利益に目を向けず非効率的な仕事をする意味でつかわれて います。

最近になって役所でも柔軟な対応をしてくれるようになったことには2つの理由が あると思います。

一つは、そうしなければクレームが集中するようになってきたからです。クレーム 処理に手間をかけるよりは、ヨコ組織を作るほうが手間がかからなくなったという ことです。要するに、昔はユーザーがクレームをつけることがなかったので、タテ ワリが維持されたという解釈です。役所のすることに文句をつけてはいけないという ユーザー側の意識が問題だったのであって、それは『タテ社会』でいうタテ社会の 問題ではないです。

もう一つの理由は、組織の目的についてそこで働いている人たちの意識が変わったん だと思います。個人としての意識だけでなく、広く社会一般にヤリガイを探す風潮が でてきたことに関係するのではないでしょうか。会社や役所は帰属先としての「場」 だけではなく、ヤリガイを達成するための「場」になってきているのではないでし ょうか。あるいは、使命感をもつようになったということではないでしょうか。

役所の体質やその変遷は、タテかヨコかという議論ではない、というのが私の主張です。

[01721] タテとヨコのちがい

大平です

タテ社会の定義は司会者が「基本的にタテ関係のみしかない社会」としています。 上下関係が厳しい社会だからといってタテ社会ではないです。この点は『タテ社会の 人間関係』でも明確になっています。上を敬う精神は世界中どこにもあることです。 「イスラム諸国、ヒンドゥー諸国、儒教の国韓国など、そして独裁政権の国なんかは タテ社会だ」とは即断できないんです

問題はヨコ関係ができるかどうかです。

家元と弟子の関係は上下関係でしょうが、弟子間に水平のつながりができるかどうか がタテ社会かヨコ社会かのちがいです。あるいは、茶の道に関すること以外で弟子が 師匠に意見を言えるかどうかが問題です。 の例はよくわかります。

談合なんていうのは、対等な関係にある企業同士の互助の工夫だと思うんですが、 これはヨコ社会の特徴とは言えないんですかね。

[01722] タテからヨコへ

ヨコの関係からタテを考える方が分りやすいですね。
企業の談合はヨコ社会、まさに連帯による互助の精神から生まれてくるものですか ね。そういった意味では、日本って意外とヨコの関係の方も強いですよね。例えば町 内会活動とかもヨコの関係だと思いますし、利益主導型はタテ社会で、互助主導がヨ コ社会って考えれば、日本はタテとヨコがバランス取れた十文字社会って所のような 気がします。と言うか、世界共通のだと思うんです。
強烈なタテ社会であればあるほど、弱者の立場にあるもののヨコの連帯(互助連帯) も強くなるといいうのは自然だと思うのですが。

[01723] Re: タテからヨコへ

田貫です

「強烈なタテ社会であればあるほど、弱者の立場にあるもののヨコの連帯(互助連帯) も強くなるという」考え方に賛成です。次のように考えました。

絶対的な権力者が支配する国では、上に行くことができないので、同じヨコ同士で つながりあう。インドがヨコ社会なのはその例。 西欧やアラブ諸国では一神教の強力な神がいる。ヨコ関係ができるのは、 神の下の平等という意味であって、強烈な上下関係の産物としてヨコの平等が 発明された。

日本では絶対的な権力者がいたことはほとんどなく、他国ほどタテ社会ではない。 それが逆に身近な生活レベルでの上下関係の窮屈さを感じさせている。 本当はタテ社会でないからこそタテ社会だと感じる逆説が生じている。

わざと中根さんと逆のように考えてみました。

[01724] 依存と忠誠

「タテの関係」には、「力のない者」が、自己の「安全」を「力のあ る者」に保証してもらうことの“見返り”という側面もあるような気 がします。

「下」の者は、安全を保証してもらう代わりに「上」に尽くす。 
「上」はそれによって自らの立場をより強固なものにし、「下」の安 全を保証する。 つまり、自己の安全を「他者に依存する」関係です。

これに対し、「ヨコの関係」は自己の安全は自らが守る。 それぞれ の安全の保障は「契約」 ―― その「契約」が“暗黙の了解”であっ たとしても ――― によって成される、という側面を持っていると考 えることもできるのではないかと思います。

現代社会で暮らす私たちの安全(あるいは生活)は、「法」が保障し てくれていると思いがちですが、実際には「法」の実効力が及ぶのは 「安全が脅かされた後」であり、私たちの安全を“事前”に保障して くれるわけではありません。

実生活の中での私たちの安全は、「他者との関係」を構築することに よって保護されるわけで、その「関係」が「依存」である場合に「タ テ社会」になるのでないか、と考えると、タテ社会の“「場」の論理” とは、「安全」と「忠誠」をバーターで扱う論理と言えるのかもしれ ません。

そういった意味では、「武士社会」や「ヤクザ社会」は典型的な「タ テ社会」ですし、「忠誠」という概念が好きな日本は「タテ社会」な のかもしれません。

[01725] 日本はほんとに「ヨコ社会」?

イトウです。
やはりここで論じられている「タテ社会」「ヨコ社会」の定義がわからなくなってき ます。 私はまだ中根さんの著作を読んでいないので、読んでいる皆さんの意見の中からポイ ントを探っています。 「タテ関係しかないのがタテ社会」と言いながら、タテ社会は場を重んじ、温情主義 に支えられた人間関係なですよね。

[1679]のかたの タテ社会=・集団構成の第一条件は「場」・集団は個人的な人間関係(パターナリズ ム=温情主義)によって維持・多くの場合、年功序列や入団順で序列構成・古顔が常 に力をもち、新参者は一番下の立場 という説明で、中根さんの意見が正しい、つまり日本はタテ社会だと思えてなりませ ん。

[1704]ふじたさんの 「場」を強調する日本独自の集団認識のあり方は「家」の概念にあるといっている という説明でも、うなづける面が多分になります。

日本には風土として古来より日本独自の「タテ社会」と成り得る素因があったのでは ないでしょうか。 徳川幕府以降に朱子学によって、さらに強化されたとは思いますが。 日本に根付いた儒教、仏教は、あのよろずの神という日本の地域信仰やアマテラスオ オミカミの神教と少しづつ同化している部分や影響しあっている部分があり、日本人 の営みも地域の慣習を重んじ、そこから洩れ外れることのないようにしようとする徒 党を組む習性は、個が確立している「ヨコ社会」と呼ぶにはあまりにも違うと思えま す。

ただ、
>日本社会では「場」を通じて人間関係を形成するために、タテ関係しか生まれな い。「資格」を通じて結びつくヨコ関係は生まれない。結果として日本はタテ社会で ある。
となると、それはどうだろうか、と思いました。そう言い切られると「ヨコもあるだ ろう」と。 このところのみなさんの議論でいくと、どうやら日本は「ヨコ社会」ということに落 ち着きそうですが、でもほんとうにそうですか?

[1679]のかたの
ヨコ社会=・集団構成の第一条件は個人の「資格」・集団は契約関係によって維持・ 序列は実力の増減によって変動・新参者も実力さえあれば上位に立てる

[1700]のかたの
Y ヨコ集団  (a⇔b、b⇔c、a⇔c)
           a    
             △
          b  c
という説明を見て、「まあ、これもありだけど、果たしてどうだろう?今の日本企業 の中で考えてみると、bとcの間でヨコの関係ってないことのほうが多いんじゃないだ ろうか?」と思えます。

むしろ、中根さんがこの本を書かれた1967年当時の企業の中は、このbとcのヨコつな がりは今よりあったといえるように思うのです。 競争関係でも、ヨコ関係というんですか?ヤクザの世界はヨコ社会なんですよね。 「談合」なんてホントにあるんですかぁ?コマリマスね!もしあるとしたら、それは ほんとにヨコ関係なのでしょうか?

それから[1696]さんへ
お嬢様ご結婚おめでとうございます。ハワイはワイキキなら日本と一緒です。真珠湾 の「アリゾナ・メモリアル」に行く時は、覚悟して行かなければなりませんが、それ 以外のところならきっと楽しい旅ができると思います。

[01726] 十文字

『タテ社会の人間関係』は、変わりにくい基本的な人間関係のありかたを考察し、そ れを論理的に総合し、その社会の構造的なあり方をとらえた本であると言われていま す。

中根の本は論理的ですが、経験談になると極めて感情的になっているようです。ヨコ 社会と思われている学者社会のほうがサラリーマンより実は最もタテ社会なのかなと 感じてしまいました。

さて、中根の理論はたくさん批判をうけているようです。 今、出張先で資料ががないのですが Mouer, Ross とYoshio Sugimoto の共著に'Constructs for Understanding Japan' というのがありますがタテとヨコを十文字にして、

1)タテがヨコよりも傑出している社会
2)ヨコがタテよりも  〃
3)タテもヨコも傑出している社会
4)タテもヨコもあまり傑出していない社会

があるはずだと説明していたようです。

[01727] Re: 日本はほんとに「ヨコ社会」?

タテ社会を権限等の力関係による上下関係を重視する社会、 ヨコの関係を力関係を用いない人間関係として、 ヨコ社会は、タテ社会の上下関係にこのヨコの関係を同等程度に重視した社会と定義を言い直してみました。
# 中根さんの定義と同等ですよね!?

私も今までの多くの議論や感想は、「重視している関係の間では協力関係がある」と言う

風だったと思います。 ヤクザの関係がヨコの競争関係があるからヨコ社会と言うと、確かに混乱しますね。
# タテの関係間で競争関係(この場合だと対立関係と言うのでしょうね)がある社会がタテ社会と言えてしまいますものね。

イトウさんが言われている、「中根さんがこの本を書かれた時の方が現在よりも横の関係が在ったのではないか」、は聞いてなるほどと思いました。 これは企業内で言うと「根回し」や「調整」って言われる行動ですよね。 組織の正規のルートを通してではなく、担当者間で協力をするものですものね。(悪く言 えば談合ですね。) 実際は、ウチの会社では今でも多々ありまして、特に年配の方は自分の依頼した仕事の優先順位を高くしたもらうための当然の手段としてます。おそらくその方々が全盛期だった20〜30年前からず〜っと行ってきたんでしょうね。

[1720]の大平さんの「利潤を追求しない組織の自然な形はタテ社会」には、今一つ同意はできません。 タテの上下関係(階層化)は、「仕事の合理化」および「トップの意志・意向の効率的な実行化」が目的で行われるものです。 (その後権力の安定化に利用されたりもするのでしょうが) トップに利潤の追求が求められる組織なら、組織化した時点でまずタテ社会が築かれま す。ヨコ関係が出来るかどうかはトップ以外の階層の価値観の問題だと思います。
# 少なくとも階層化と部門化を行ったトップは、部門間が連係して機能することを期待しているはずです。

なんだか「場」と言う言葉を、中根さんはあいまいな定義(感覚的に)で使用しているように思えてきました。 「場」というと「面」や「空間」で、「場」を構成しているのは「縦と横(や高さ)」ですよね。会議とかの「場」にしても、上司から部下まで複数いて構成していますし。 そうすると、「場を重視する」とは「縦も横も重視する」ことになってしまって、どうしてタテ社会になるのかが良く分からなくなってしまいます。

結局タテ社会になる原因となったのは、
1)連帯感を持ちたがる民族性 = 個人的な責任を背負いたくない民族性
              ↓
2)仲間意識(連帯感)をもてる明確で適度な規模のグループに属したい
              ↓
3)仲間意識が強過ぎるために他のグループを敵対視しがちになる
              ↓
            タテ社会の形成

では無いでしょうか!?

中根さんは、2)の結果形成される小規模なグループを指して「場」と呼んだのかも知れませんね。そうすると「場」から「タテ社会」ができてしまいますね〜。

[01728] 中根によるヨコ社会とは

中根さんの言葉づかいは独特なので、読者はかなり混乱させるのではないでしょう か。

中根は本の註で 「ヨコが機能するということは、異なる諸集団をクロス・カット(横に切る)する同 類集団としてのネットワークを持ちうることである」といっています。

これはおそらく、○○慶友会がXX慶友会とも△△慶友会が枠をつくらないでネット ワークをもち、協力しあうということとか、
例えば、政党派閥が互いにけん制しあうだけではなく、互いに協力しあうとか、
例えば、怖いお姑さんと喧嘩してしまったとき、隣村から同じ状況のお嬢さんたちが 応援にきてくれるとか、
ヨコが機能するということはそういうことを言っているのだと思います。

慰安旅行や社内運動会に(なんとなく参加しなきゃならない雰囲気なので)妻、子供 が参加したり、 会社の同僚に、家庭の事情とか恋愛とか一部始終悩みを打ち明けるとか、 要するに、村落とか職場以外に「自分の社会生活の場をもっていない、タテ社会と引 き合いに出すために持ち出したのが「ヨコ」の概念ではないだろうかと思いました。

p.s.「場」は「枠」と同じような意味で使っているような気がします。しかし 「場」だけでなく「資格」も「枠」であると考えてしまいます・・・。「枠」の概念 についてもう少し検討してから書かせていただきます。

[01729] ウチの会社と学者の業界

[1727]のかたのとらえかたは、ほとんど納得がいきます。
プロジェクトやタスクフォース、あるいはワーキング・グループをつくって、ある目 的に基づいて組織がつくられるケースがウチの会社でも多々あります(“ウチの会 社”って言い方考えて見たらなんかいやらしい表現ですね)。 中根の解釈でいくと、これはナニ社会なのか知りませんが、もともとの出身所属部署 の人間関係よりも、メンバーが仲良くなることが多いです(最初はかなりモメます! けん制し合うし帰属意識が働いて)。 もともと私の会社は総合商社ですから、“タニンのデカイ軒下借りて、個人商店が寄 り合い所帯で商売はっている”ようなものなんで、隣のヤツはある意味敵ですから、 時には足の引っ張り合いも陰湿にあります。

[1726]のひとが例に出した、中根じゃない人の理論「十文字」ですか?なんかこっち のほうがピンときます。
今いる会社の中しか、私は組織のことがわかりませんが、学者の業界って「ヨコ」の 関係があまりないんですかね。興味深いです。抱えている研究テーマは独自性がなく てはダメでしょうから、やはり“寄り合い所帯”=総合商社みたいなかんじなんです かね。

[01730] 教授のコラボ

学生Aです。

わたしはいま、ちょっとおもしろい講義を受けています。 おもしろいというのは、講義のスタイルが一人の教授からのスクール形式ではなく、 三人の教授によるオムニバス形式で、最後にパネル・ディスカッション方式をやっ て、われわれ聴講生も参加しながら授業を進めるというものです。

「心理学」なのですが、一人は「知覚・認知心理学」専門教授、もう一人は自然科学 系「知覚・認知心理学」教授、そしてもう一人は「臨床心理学」の専門教授がそれぞ れ自分の専門領域からのアプローチで授業を行います。

それぞれの教授が相手の教授の理論を批判しあったり、同調しあったりして、同じ教 室内で、我々学生もいる中で、教授たちが“素”を出し合って(時にはマジっぽく熱 くなって)言い合っているのはおもしろいです。

われわれにしてみたら、他方向からのアプローチによって、心理学が語られますか ら、3D感覚で授業が理解できてきます。

教授達が時々マイクを持ってわれわれの席に質問に来たり、学生同士で実験をやった りして、密度の濃いコミュニケーションが図れてとても有意義です。 受講者数が多いので、毎回アンケート用紙が配られ、われわれは意見や考えをその紙 に書いて提出しますから、教授に文句がある時や反論・質問はこの紙に書けるし、次 の講義のときに、それに教授が答えてくれます。

タテ方向ヨコ方向、学内でもうまくできているケースにうつります。

[01731] 思いつき

縦社会と聞いてルネサンス前のヨーロッパを思い出しました。 ルネサンス前のヨーロッパでは、人々は自分の社会での位置に疑問 をもつことはなく、それは自然なものであると捉えたそうです。こ のような社会は厳格な縦社会であると言えるでしょう。そして、こ のような社会の基盤になったのが、自給自足の経済により農民層の 富による権力が領主のそれを凌駕しえないことです。ちなみにこの 社会は「場」による社会集団の形成ですね。

しかし中世中期ごろから社会が安定して農業技術の向上、生産力の 増大をみるようになると、手工業が発達し商業が勃興しだします。 すると商業者は自分の地位を縛り付ける縦社会の風習を打破しは じめるのです。そしてこれがヒューマニズムを生むわけです。人々 は人間として平等な権利を主張しだしわけですが、これこそ横社会 の起源ではないでしょうか。(個人の権利の確立、その結果として の契約社会)

それで私の縦社会と横社会の定義をすると 縦社会=人々が自分の身分を自然なものと受け止めている社会 横社会=人々が自分の権利を主張しだす社会 というふうになります。

戦後の日本の経営者の特徴として、やたら使命感が強いことが あるように感じます。また労働者も「会社人間」と言われるよう に働くことに強い使命感を感じていたのではないのでしょうか。 そこでは私の言う縦社会での人間が存在しています。みなが働くこ と自体に疑問をもたず、働くことを自然なことであると捉えていた のではないのでしょうか。つまり日本では個人の権利が確立していな かったのです。

そして労働者に富が蓄積され、その相対的な権力の増大により日本人 にもルネサンスがやって来たのではないのでしょうか。そして遺産的 なシステムである「縦社会」は明らかに現在社会とはあいません。そ れが「縦社会」が悪いこと示します。

あと、この考え方でいけば途上国の多くは縦社会なのではないのでし ょうか。例えばアフリカとかでは、一人が何かしらの理由で富を得た 場合、それを家族・親戚などに平等にわけなくてはならないそうです。 これはまさに「個人の権利」が成立していない証拠であると思います。 つまり日本が特殊ではないということです。

横社会が一度形成されると、それを成立させる経済的基盤が存在する かぎり、縦社会は決して復活はしません。大正デモクラシーなどの横 社会が頓挫してしまったのは、その後の世界的な不況による保護貿易 の蔓延が世界的な経済基盤を揺るがしたことに起因するでしょう。
つづき